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原爆症訴訟(3)――東京訴訟結審

T・O記

2006年7月12日、東京地裁で原爆症不認定処分の取消請求訴訟の最終弁論が行われ、結審しました。その様子を2回に分けてレポートします。

まず、原告側代理人の小海範亮弁護士が、被爆者援護法の適用のあり方について、次のように述べました。

原爆症の認定に当たっては、(1)被爆者援護法が国家補償の理念に基づくこと、(2)放射線に起因する特殊な被害であることを認識すること、(3)被害者が高齢化していることから、被爆者に対する援護策の最大限の配慮をすること等が求められていることを考慮すべきです。

原子爆弾により、広島で20万人、長崎で10万人を超える人々が死亡したと推定されています。また、生き残った者にも様々な被害が生じました。爆風の際の打撲・骨折や熱線によるやけどは、身体障害やケロイドの後遺症となりました。こうした被害は、「健康状態の悪化がいつ生じるのか」、「具合が悪くなると被爆のせいではないかと気になる」という不安となり、精神にも被害を与えています。さらに、被爆時の地獄のような経験がPTSDとなり、今も心を傷つけています。加えて、身体的被害・精神的被害が、社会における差別をももたらし、結婚や就職で差別を受けてきました。このように、原爆の被害は、多重的・複合的に生じており、被害は総合的・相関的にみる必要があります。

原爆の障害と被害については、放射線の障害作用とその被害の認識も重要です。原爆が爆発した際の初期放射線は、そこにいた人々の体を貫き、細胞組織や遺伝子を破壊しました。爆発直後の火の玉の中に含まれていた様々な放射性物質は、きのこ雲となり、そのきのこ雲からも放射線が放射され続ける一方で、それらが黒い雨となって降り注ぎ、放射性下降物として被爆をもたらしました。さらに、黒い雨などの放射性下降物などが、呼吸や飲食により体内に取り込まれ、体の中から放射線を浴びせました。このような外部被爆・内部被爆により、脱毛・嘔吐・下痢・出血などの急性症状が出ています。遠距離被爆者や入市被爆者にも同様の急性症状が現れています。
 
最後に、小海弁護士は、放射線が人体に与える影響は未解明な部分があるからこそ、その限界を踏まえ、以上のような被害実態を直視し、原告らに発生している疾病の放射線起因性を判断するのが、真に科学的な判断手法であると主張して、陳述を終えました。

続いて、原告の片山文枝さんが次のような意見陳述をしました。

広島で生まれ育った片山さんは、1944年に19歳で結婚し、幸せな生活を送っていました。45年6月には妊娠していることが分かりました。

1945年8月6日、片山さんは爆心地からおよそ1.1kmのところにある妹の下宿で被爆しました。己斐駅裏の丘の上に避難すると、そこにあった神社にはすでに多くの人が避難していました。たくさんの人が、皮膚が向けて赤黒い肉がむき出しとなり、「痛いよう」「水をくれ」などとうめいていました。日が暮れてから、片山さん姉妹は実家を目指しました。行きかう人は皆、「人間ぼろ」でした。皮膚のぶらさがった手を前に突き出して歩く人、目が見えないのかウロウロと這いずり回る人、人のものとは思えないうめき声、まとわりつく血と粘液の湿った音、それらの混じったにおい、その中には物言わぬ赤黒い肉の塊と化した多くの遺体・・・。どうすることもできないまま、実家へと向かいました。

その後、片山さんは急性症状に苦しめられ、死の淵をさまよいました。一命は取り留めましたが、被爆の日から60年以上もの間、健康だった日は一日もないそうです。

さらに、1946年2月に生まれた娘は、原爆小頭症でした。片山さんは、あの日あの場所にいたせいだと、自分を責めました。娘は、今でも時折、「おかあさん、私はばかなんでしょう」と言うそうです。その度に、片山さんは胸の奥底をえぐられるような悲しみにさいなまれました。

最後に、片山さんは、自らの想いを次のように述べました。

「原爆は、あの日、広島のすべてを奪いつくしました。人間が人間であることを奪いました。私たちの人生を奪いました。私たちは、この60年以上もの間、なぜこんなにも苦しまなければならなかったのでしょうか。原爆症認定申請を却下した国は、私の苦しみは自業自得だと言っているようです」。

「当初、裁判で娘のことは言わないつもりでした。しかし、生まれたその日から原爆の被害を物語ることになった娘のことこそ、後世に伝えねばならないと思うようになりました。娘と自分の苦しみがなぜ存在するのかを伝えるために、自分は生命を与えられました」。

そして片山さんは、裁判官に対し、人が二度と自分達のような人生を歩むことのないよう祈っていること、そして原爆に蝕まれた体を押して法廷に来たことを伝え、被爆者の苦しみを理解して、この願いに真摯に応じるよう述べて、意見陳述を終えました。

続いて、原告の中山勇栄さんが意見陳述をしました。

中山さんは、14歳の時、長崎で、爆心地からおよそ1kmの病院で被爆しました。火傷はしませんでしたが、全身に無数のガラス片が突き刺さり、左手の人差し指と中指が、建材の下敷きになったのか、ぐちゃぐちゃになっていたそうです。

通りで、倒れたままぴくりとも動かない大勢の人間、燃える馬車の馬や電信柱、路面電車、屋根がなくなり、曲がった鉄骨がむき出しになっていた三菱製鋼の工場などを見て、中山さんは、「私もこのままここで死ぬんだ」と思ったそうです。しかし偶然トラックで通った知り合いに運ばれ、防空壕に寝かされました。治療も受けられず、食べるものもないまま、防空壕の中にたまった泥水をすすり、命をつないだそうです。

8月12日、国民学校へ移されたところ、両親がそれを知り、翌日迎えに来てくれました。実家へ戻りそのまま入院しましたが、その直後から40度を超える高熱が続き、嘔吐・吐血・下痢・下血を繰り返しました。さらに、髪も歯もすべて抜け落ちてしまい、14歳で総入れ歯になってしまいました。その後5年近くにわたり、身体のあちこちからガラス片が出てきました。そのたびに傷口が化膿し、いつまでも治らなかったそうです。

さらに、父親は、8月10日から長崎に入り、中山さんを探していました。そのため入市被爆をし、吐血・下血などの症状がでて、髪も抜け落ちました。いったんは元気になりましたが、1951年、59歳の時に胃がんで亡くなったそうです。

中山さんは最後に、「原爆で痛めつけられてから、私の人生はすっかり変わってしまいました。あんなに元気だったのに、その後の60年間は身体中の痛みとあらゆる病気の連続でした。この苦しみをせめて認定という形でつぐなってほしいと思います」と述べて、意見陳述を終えました。

引き続いて、代理人である中川重徳弁護士が、原爆症認定の際に用いられる「審査の方針」を批判する意見陳述を行い、次のように述べました。

原爆が投下された事実を知らない人はいないだろうが、61年たった今もなお、被爆者がさまざまな病気で苦しんでいるという事実を認識している人は多くないはずです。しかし、原爆放射線は時間を越えて、恐ろしい影響を与えていることが研究を通じて明らかになっています。これが被爆者の直面している現実です。

被爆者援護法は、こうした被爆者を救済するためにあります。しかし、被爆者手帳を持つ26万人余りに対し、原爆症と認定されたのはわずか2232人です。原爆症と認めないその根拠が「原爆症認定に関する審査の方針」です。

この「審査の方針」は、1400メートル以遠の放射線量を過小評価し、残留放射線や体内被曝の危険性を殆ど無視した基準(DS86)を採用しています。「審査の方針」は、遠距離被爆を説明できず、最高裁でも「事実を充分に説明できない」と批判されています。この「審査の方針」が科学的でないことは明白です。

本来、原爆放射線が人体に与える影響は、初期放射線のみならず、残留放射線や内部被曝を考慮しなければ、説明できないものです。きのこ雲の幅は十数キロに及び、その下には目に見えない放射性微粒子が充満していました。原告ら被爆者は、この放射性微粒子が充満する中をさまよい歩きました。またこの放射性微粒子は、黒い雨などにより、呼吸・飲食などを通じて、体内に取り込まれ、体内被曝をもたらしました。これらを無視することはできません。さらに、「審査の方針」が採用する「原因確率論」もまた、科学の名に値しないものであることが、これまでの立証で明らかになっています。

最後に中川弁護士は、以上のことから、「審査の方針」は非科学的であり、これを基準として原爆症の認定をすることは、著しく不合理であるから、「審査の方針」は直ちに廃止されなくてはならない、と主張して、陳述を終えました。

次に、原告の斉藤泰子さんが意見陳述をしました。

斉藤さんは、8月11日、母に連れられて広島市内の自宅に戻り、入市被爆しました。当時4歳でした。熱戦も爆風も受けていませんが、入市直後から急性症状に苦しみました。

被爆直後から、小学校3年生頃まで、しばしば発熱・下痢・吐き気に苦しみました。そのため、幼稚園・小学校へ満足に通うことができませんでした。発熱などの症状が治まった後も、疲れやすく身体がだるいという症状が続いたため、体育の授業の多くは見学していたそうです。

斉藤さんは39歳の時、母のすすめで被爆者手帳を取りました。それ以前は、母から被爆のことを聞くことはほとんどなく、身体が弱いのも生まれつきだと思っていたそうです。しかし、母から被爆の話を聞いて、身体が弱いのは被爆のせいではないかと考えるようになりました。母は、被爆の影響をずっと感じていたそうですが、ちゃんと結婚できるよう黙っていたそうです。

これまで大きな病気はしていなかった斉藤さんでしたが、2001年、直腸がんが見つかりました。手術をしましたが、翌年、再発しました。直腸をすべて摘出し、人工肛門をつけました。2003年には右骨盤内のリンパ腺にがんが転移しているのが見つかり、放射線治療を受けました。がんは沈静化しましたが、放射線治療の影響で腸が癒着し、腸閉塞を起こしました。食事が取れなくなり、以来、2年にわたって点滴だけの生活をしているそうです。現在の体重は30キロだそうです。

最後に、「末期がんで余命いくばくもないことを医師から言われています。私には時間がありません。国は、私のような入市被爆者の実態をわかっていません。多くの入市被爆者が私以上に苦しんでいます。このような悲惨な状態は私たち被爆者だけで結構です。二度とあやまちを繰り返さないで下さい。早くこの裁判が良い方向に解決できることを祈っています」と訴えて、陳述を終えました。

次に、原告である梅園義胤さんが意見陳述を行いました。

梅園さんは、5歳の時、広島で被爆しました。被爆直後は、疲れやすくなり、家でごろごろしていたそうですが、その後は被爆による体調への影響もなく健康に過ごしていました。結婚もし、子どもも生まれていました。定年まで仕事を続けるつもりでした。

しかし、1987年、47歳の時に左腎臓に腫瘍が見つかりました。腫瘍を摘出する手術を受け、医師からは全快するといわれたのですが、体調は悪化し、50歳の時、仕事をやめました。その後、1995年に肺がんの診断を受け、治療を受けました。

梅園さんは現在も通院をしていますが、最初に腎臓の手術を受けた頃によく見かけていた患者さんたちがほとんどいなくなり、次は自分の番ではないかと不安に思っているそうです。がんの発症のため、体力も気力も落ちています。しかし、国が原爆症と認定しないことは許せないと言います。

梅園さんは、2003年7月11日に亡くなった右近行洋さんと幼なじみでした。彼と一緒に原告になりましたが、右近さんは体調を崩し、裁判に来ることができませんでした。右近さんが入院した時、梅園さんがお見舞いに行ったところ、非常に喜んでくれて、一緒に話をしたそうです。その際、「何で俺がこんな病気にならなければならないのか」と言っていたそうです。そして右近さんは、判決を聞くことなくこの世を去りました。

梅園さんは、最後に、被爆者の置かれている状況を理解し、正しい判決をしてくれるよう願っていると述べ、意見陳述を終えました。

原告の方々の受けた重い被害、胸に秘めていた苦しい思いに、法廷では涙する人も多数見られました。傍聴していて、私も胸が締めつけられました。「時間がない」という切実な訴えに、裁判官も国も、真摯に耳を傾けるべきであるように思います。

次回はこの法廷の後半部分についてレポートします。

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