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憲法情報Now<憲法関連裁判情報>

 

ハンセン病国賠訴訟(10) 台湾楽生院訴訟2

M・K記

2005年8月29日(月)は楽生院訴訟の結審の日でした。午後2時から、東京地裁の大法廷(103号法廷)にて開かれました。多くの支援者が詰め掛け、開廷5分前には、96人の傍聴席が満席になりました。そのため、途中で一部の傍聴人が入れ替わるなどし、のべ100名を超える人が傍聴しました。

冒頭の宣誓の後、原告である汪江河さんの本人尋問が、久保井弁護士によって1時間強にわたって行われました。以下にその詳細をご報告します。

長男、初孫として大切に育てられ、子どもの頃は非常に活発な性格で、ガキ大将的な存在だった汪さんは、ハンセン病と医師から診断され、楽生院に行くように言われました。両親は毒殺されるのではと心配し、母親は高価な薬を買って治そうとしました。その後は学校には行けなくなり、他の家族とも食事や寝場所を分けました。このことは言葉では表現できないくらい辛かったそうです。

しばらくして、警察官・衛生省の役人が家を頻繁に訪れ、楽生院に行くよう説得しました。彼らが家に来るたびに、汪さんはさとうきび畑の中に逃げ込み、その間は、息を殺して泣いていました。ご両親は「薬を買って治す」と、懸命に訴えました。人目に隠れて暮らした数年間は、次第に厳しくなっていく近所の人々の視線も相俟って、非常に辛いものでした。

ところが、1942年(数え年15歳)旧暦9月のある日、早朝4時頃に警察官が二人、予告なしに家に来ました。王さんは心が張り裂ける気持ちで一杯でした。泣き崩れる母親を慰めはしたものの、家族との永遠の別れを覚悟しました。家から駅まではトラックで、そこからはハンセン病の患者ばかりを乗せた移送専用列車で落生院まで連行されました。駅では、王さんが歩いたすぐ後ろから消毒液を噴射されました。噴射された跡を見て、死んだほうがましだと思ったそうです。

汪さんは、楽生院では大人の部屋に入所し、他の入所者の手伝い(ボタンをとる、サツマイモの皮をむく等)・神社の掃除・老朽化した院内の小学校の建替えなどをさせられました。外出制限も厳しく、毎日朝8時・正午・夜11時に指導員が監視に来ました。彼らは台湾人及び日本人の5人からなり、非常に怖い存在でした。

更に、植民地時代には、断種手術や、合計十数体の堕胎された胎児の標本を見たことがあります。言葉では言い表すことの出来ない、恐ろしい光景でした。

植民地時代に、面会に来た親族は母親だけで、それもたった1回だけでした。その際、母親は、白衣を着せられ、靴は消毒液に浸され、長いテーブルを挟んだ上で行われました。その際、汪さんの収容後、家族には年二回の検診が義務付けられたことを知らされました。家に医師・看護師・衛生省の役人が来たために、近所から非常に目立ったそうです。それらを含めて、「すべてあんたのせいだ。」と母親から言われました。

実家に戻ったのは、植民地時代に、一日約150gのご飯の食糧配給しかなく、空腹に耐えることができずに逃げ帰った1回(当時は餓死者が1日あたり2人の割合にのぼりました)と、1986年に母親が亡くなった時、および母親のお骨をお寺に入れる時の3回しかありません。

因みに、台湾では、葬儀の際には親戚一同で名前を出しますが、母親が亡くなったときの案内状には、汪さんの名前だけがありませんでした。汪さんの一番上の弟さんが、汪さんの故郷に住んでおり、ハンセン病に罹患した汪さんの存在を友人に知られるとまずいと考えたためです。

現在は、兄弟とも交流があり、毎年正月には弟の家で過ごし、食事会を開きます。正月以外にも招待されますが、1度を除いて行ったことがありません。また、食事会でも、兄弟と同じ食器に手を出すことはなく、甥・姪をはじめとした子どもたちには一切話しかけませんでした。子ども時分の活発な面影はここには全くありません。

もし、日本政府による強制収容がなければ、汪さんは家族のもとで温かく暮らしていたはずです。言うまでもなく、強制労働に従事させられたり、手に火傷を負わされたりすることはなかったでしょう。

汪さんの尋問に続いて、徳田弁護士による意見陳述が行われました。徳田弁護士は、裁判所が絶対に譲ってはならない一線として、法の適用において何人に対しても公平である点をあげました。その上で、ハンセン病補償法の「我らは、これらの悲惨な事実を悔悟と反省の念を込めて深刻に受け止め深くお詫びする」という前文を引用しつつ、日本の司法の良識を歴史に刻み込むに足りる判決を切に願うと結びました。

なお、裁判そのものではありませんが、同日午後6時半より、クレオ(弁護士会館2階)にて、「ソロクト・楽生院裁判を勝たせるつどい」が開催され、200名を超える人たちが参加しました。

弁護士の方々と原告のお話、韓国弁護団及び台湾弁護団の代表者の報告の後、判決に向けた行動提起として、徳田弁護士より、判決前日の10月24日の夜に、1000人規模の大集会の実施が提案されました。ハンセン病の問題は未だ解決していません。徳田弁護士は、この訴訟は、今なお日本より強く残るとされる韓国・台湾におけるハンセン病に対する差別・偏見をいかに克服するかの運動を担っているのだ、と述べました。

最後に、判決期日ですが、ソロクト訴訟の判決言い渡しが10月25日10時より、楽生院訴訟の判決言い渡しが同日10時半より、ともに103号法廷にて行われます。傍聴席は限られますが、奮ってご参加ください。

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