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薬害肝炎訴訟(4)

T・O記

2006年2月7日、C型肝炎訴訟の口頭弁論が開かれました。この日も、前回に続いて、原告本人尋問が行なわれました。この日の証人尋問は、午前10時に始まり、昼休みを挟んで、終了したのは午後5時半でした。長くなりますので、2回に分けてレポートします。

午前中は、原告番号18番の方(以下、Aさんと呼びます)の尋問でした。Aさんは、1988年6月、次男を出産しました。その際、大量の出血があったため、医師が、「鉄分を補う薬」だとして、ある薬を投与しました。それがフィブリノゲンでした。この薬がC型肝炎ウィルスに汚染されていたために、AさんはC型肝炎に感染しました。フィブリノゲンを投与された直後から体調が悪くなり、翌日は目がかすみ、体を起こすこともできず、トイレも這っていかなければならないような状態でした。出産後、通常は1週間ほどで退院するところを、Aさんは2週間かかったため、ベッドの上で、退院していく他の産婦をうらやましく眺めていました。また、家に残してきた長男が心配になり、早く退院しなければ、というあせりも感じていました。

体調が戻らないまま、医師の反対を押し切って、出産から2週間後にAさんは退院しました。そして学童保育へ預けていた長男を迎えに行きました。長男は、指導員の陰に隠れて、恥ずかしそうな、しかしうれしそうな表情をしていました。その時、Aさんは、「長男には可哀想なことをした、申し訳ない」と思ったそうです。

Aさんは、退院後10日ほどで肝炎を発症し、再び入院をすることになりました。この時の入院は、7月1日から1ヵ月半に及びました。小学校1年生の長男と、生まれたばかりの次男は、夫が面倒を見ました。夫が仕事に行く時は、それぞれ親戚に預けました。そうした状況において、安静にしているよう指示されていたAさんは、精神的には安静にしていることができませんでした。芝居をしていた夫が地方公演にいくこともあり、大人の都合でこれ以上子どもを親戚に預けることはできないと思い、医師からはもっと入院しているよう言われましたが、8月20日、退院しました。退院にあたり、医師からは、強力ミノファーゲン(強ミノ)の注射のために、毎日通院するよう指示されました。退院して1年ほどすると、肝機能の数値も安定しました。その状態は10年ほど続きました。ただ、その間も、体のだるさは感じていたそうです。

Aさんは退院後、調理のパートの仕事を始めました。家計を少しでも楽にしたいという思いからです。医師も、短時間で、重労働でなければよいといったので、一日2時間半の勤務をしていました。立ち仕事だったため、疲れてしまい、仕事の前と後にそれぞれ1時間ほどの休憩が必要でした。仕事が休みの日も、外出はほとんどせず、一日中家で休んでいました。体調がすぐれないため、地域の婦人部の役職についたときも、行事に参加することができず、後ろめたい思いをしていました。たまに出席すると、周りの目が冷たく感じられ、いたたまれない思いをしました。Aさんは、家事も十分にこなすことができませんでした。洗濯は2日に1回、掃除も3〜5日に1回のペースでしか行うことができませんでした。

2002年10月、肝機能の数値があがり、体調も以前より悪化しました。数値が上がっているという意識がなかったため、それを知った時は大きなショックを受けたそうです。肝硬変、そして肝がんへの一歩手前か・・・と思ったそうです。当時、夫とは別居しており、家計はAさんのパートと長男のアルバイトでまかなっていました。Aさんが入院して働けなくなると、家計が苦しくなるということや、次男がまだ中学生だったことから、入院を迷いましたが、夫からお金を借りることができたため、2003年3月に入院しました。

入院の際、医師からは「このまま放っておいたら、肝硬変になるところだった」と言われました。その時、Aさんは、肝硬変で倒れた知人の女優さんを思い出しました。Aさんが独身の頃、この女優さんの付き人をしていました。この女優さんが倒れて入院したため、Aさんはお見舞いに行き、そこでその女優さんがC型肝炎であることを知りました。彼女が退院した後、Aさんは彼女の家へ週に一回、家事のお手伝いに行っていました。これは、この女優さんが亡くなるまで、6〜7年続きました。退院直後は元気だった女優さんですが、日に日に元気がなくなっていき、次第に仕事や外出も控えるようになりました。そのうち、朝食を食べ、新聞を読むと、あとは終日ソファで横たわって休むだけの生活になってしまったそうです。また、Aさんが家事の手伝いに訪れた時も、その女優さんにドアチェーンをはずす力がなく、ドアを開けるのに10分近く待ったこともあったそうです。その女優さんは入退院を繰り返し、入院中にAさんがお見舞いに行くと、その女優さんは腹水でおなかが膨れていて、非常につらそうだったそうです。Aさんは、自身が肝硬変になると聞いて、この女優さんのことが、自分の将来と重なったため、心がふさいでしまったといいます。

その後、Aさんは退院しましたが、体のだるさは続きました。また、強ミノの注射のため、一日おきに通院しなくてはいけませんでした。それ以外は、たまに買い物へ出かけるほかは、ほとんど外出せず、家で休んでいました。肝機能の数値が上がるのが嫌で、動くこともせず、家の中でボーっとしていたそうです。窓を開けると次男を出産した病院の看板があって、それを見て、そのまま窓から飛び降りようと思ったこともあったといいます。

このAさんの姿を、2人の子どもたちは、まるで腫れ物を触るかのように接していました。Aさんは、当時、子どもたちにまで気が回らなかったといいます。法廷で、「子どもたちに申し訳ないことをした」と、涙ながらに語りました。Aさんが、子どもたちに気が回るようになったのは、中学生の次男が所属していたバスケットボール部の試合を、ビデオで見たときです。そのビデオは、同じ部に所属する子どもの親が撮影したもので、ビデオの中には、子どもたちを応援する親の姿も映っていました。Aさんは、自分がそれをしてやれなかったことに気づき、申し訳なく思ったそうです。

C型肝炎の治療方法に、インターフェロンの投与があります。医師に薦められたにもかかわらず、Aさんは、その治療を行っていません。インターフェロンの投与は、一回当たり5千円近くかかり、それを週に3回、6ヶ月間継続する必要があります。2004年に離婚していたAさんは、副作用のうつ病などのために、仕事ができないことから、生活費の問題や、子どもを巻き込んでしまうことを懸念して、インターフェロンの投与を断念したのです。

現在、Aさんは慢性肝炎に加え、腎臓にも疾患を抱えています。昨年の9月からこれまでに3回の入退院を繰り返し、この証言の2日後から、また5日間の入院が予定されており、今後も、入院が必要だそうです。医師からは、肝機能の数値が安定している今のうちに腎臓の治療をするよう、いわれています。インターフェロンの投与は、腎臓の治療が終わってからでないと、できないそうです。

肝炎に感染する前、Aさんの夢は、夫の演劇活動を支えることでした。Aさんの夫は、脚本・演出に加え、自らも演じるような多才な人物で、演劇界の人たちからも一目おかれる存在だったそうです。フランスで公演したときには、ル・モンド紙に取り上げられたこともありました。しかし、公演は赤字が続いていました。そのため、夫が稽古などで仕事をできないときに、Aさんが仕事をして稼ぎ、夫の芝居を支えたいと思っていました。加えて、夫の芝居のプロデュースもしたいと思っていました。夫と2人で芝居を演出するのが夢だったのです。

しかし、肝炎のため、その夢は実現できませんでした。2001年、夫は、これまでの活動の集大成とも言うべき大掛かりな公演を企画しました。ところが、Aさんは、この公演をやめるよう夫に頼みました。夫が稽古に入ると、その間仕事ができないため、収入が、普段の半分(30万円が15万円)になってしまいます。Aさん自身は、これ以上仕事を増やせませんでしたし、当時すでに親戚や知人からの借金が200万円を超えていたため、借金もできませんでした。そこで、夫に、公演をやめるようお願いしたのです。ところが、夫は、“もう後戻りはできない”といって、公演を行いました。この件がきっかけで、2人の距離が開いてしまいました。夫を支えることが生きがいだったAさんですが、病気のために、芝居に情熱を傾ける夫についていけなくなり、とうとう離婚に至りました。「病気にさえならなければ、夫を支えて、やりたい公演をさせてあげられたのに・・・」と、Aさんは悔しそうに語りました。

被告国・企業の裁判に対する姿勢について、Aさんは、「言い逃れをしようとしているようにしか見えない」と厳しく批判しました。そして、「被告は、一刻も早く肝炎の被害の大きさを認め、治療システムを確立してほしい。それから、治療の間の保障もしてほしい」と語りました。

最後に、「病気が治ったら、思う存分働きたい。今までは休んでばかりいました。ウィルスがなければ、健康になれます。周りから、怠けていると思われず、十分に働けるということを証明できると思います。17年8ヶ月の間、周りからは怠けていると思われている、と思っていました」と、それまでの辛い思いを述べました。裁判所に対して、「私は、肝炎が末期になって、相当の苦痛を持って闘病する人を何人も見てきました。その現実を知ってほしいと思います。肝炎と共生するのはもう嫌です。早く私の体から、ウィルスを除去したい。裁判官には、どうか公平な判断をお願いしたいと思います」と訴え、主尋問を終えました。

続いて、被告側の反対尋問が行なわれました。企業側は、Aさんが、フィブリノゲンではなく、輸血から感染した可能性を考え、Aさんに対して輸血の経験を尋ねましたが、Aさんは輸血の経験はないと述べました。国側は、Aさんの病状がそれほど悪くないことを示すためなのか、一日の勤務時間などを尋ねていました。

さらに、裁判官からの質問も相次ぎました。まず左陪席の裁判官が、腎臓病について質問しました。肝炎との関係を知りたかったようですが、Aさんは、腎臓病の原因は不明であると答えました。続いて右陪席の裁判官が、仕事をする際に医師に相談したかどうかをたずねました。Aさんは、調理の仕事については医師から短時間であればよいと言われたこと、及び、それ以外の仕事(自然食品のお店の経営、スーパーのレジ打ち)については、Aさんの判断で、相談しなかったと答えました。最後に、裁判長から、肝炎にかかってから行った仕事で、一番つらかった仕事は何だったのか、質問がありました。Aさんは、スーパーでのレジ打ちは、人手不足のため時間延長などもあり、この仕事が一番きついものだったと答えました。また、強ミノの注射についても質問があり、Aさんは、注射のため何度も病院へ通ったこと、強ミノの注射が静脈注射であり、Aさんの静脈はもろくて針が入りにくく、何度も針を刺された経験などについて語りました。

三人の裁判官がいずれも質問した証人尋問は、私が裁判傍聴を始めて以来、初めての体験でした。裁判官が質問しないこともしばしばある中で、3人の裁判官がいずれも質問をしたということは、この事件に対する裁判官の関心の高さを示しているのではないかと思います。

昼休みを挟み、午後1時15分から、原告番号15番の方(以下、Bさんと呼びます)の尋問が行なわれました。Bさんは、C型肝炎の患者さんではなく、夫をC型肝炎で亡くした方です。Bさんの夫は、1982年12月31日、十二指腸潰瘍で出血し、T病院に入院しました。手術や輸血はせず、止血剤の投与のみして、一ヶ月ほどで退院しました。

退院後、出社しましたが、早退してきました。顔も目も黄だんが出て、黄色くなっていました。夫が「これから病院へ行く」というので、着替えましたが、全身が黄色くなっており、Bさんは驚いたといいます。そしてT病院で診察を受けたところ、急性肝炎であると診断されました。T病院に不信感を抱いたBさんの夫は、K病院へ移りました。K病院では、「薬剤性肝炎」だといわれました。夫はC型肝炎とエイズを同じものだと思っていたため、非常に悩み、心配していたそうです。子どもに感染させてはまずいということで、夫は、自分が触ったところを消毒して回り、「こんな状態なら、早く死んだほうがましだ」という言葉も、時折もらしたそうです。

1996年に、T病院から、非加熱製剤の投与によるHIV感染の注意を呼びかける手紙が、Bさんの夫のもとに届きました。その手紙を見て、夫は、「なぜこんな手紙が来るんだろう」と疑問に思ったといいます。C型肝炎に感染していたこともあり、2000年12月、夫は、T病院に電話をし、1982年の大晦日に入院した際、自分に投与された薬を教えてほしいと伝えました。T病院は当初、「水害でカルテをなくしてしまった」などといって、教えてくれませんでした。しかし、夫が食い下がり、「自分はもうすぐ死ななきゃならない。だから教えてくれ」と、強くお願いしたそうです。病院側もついに折れ、使用した薬がPPSBであることを教えてくれました。初めて耳にした薬の名前だったため、県庁に問い合わせたところ、「血液製剤で、ウィルス感染の可能性がある」と教えられたそうです。

夫はT病院でインターフェロンの投与を受けましたが、それが効かなかったため、「治らないのかな」「もうだめなのかな」と、何度も言っていたそうです。自殺願望も抱くようになり、車で出かけた際に、夫から「一緒に死んでくれないか」と聞かれたことも、何度かあったそうです。

夫は、1999年2月にN病院に入院し、同年4月、肝臓がんの手術を受けました。手術後に、医者から、夫に対して、C型肝炎による肝臓がんであったこと、及び再発する可能性が60%あるということが告げられました。夫は、「やっぱりがんか・・・」と残念そうにつぶやいたそうです。夫はそれ以来、ふさぎ込む日が多くなり、外を見て黙りこくっていることが多くなったそうです。Bさんから見ても、気力がなくなったように見えたといいます。

その後、夫は肝臓がんが再発し、入退院を繰り返しました。2001年2月に退院した後、プランターでチューリップを育てていたそうです。春になって桜や自ら育てていたチューリップが咲き、それを見た夫は、「桜も見たし、チューリップも見たし、これで終わりかな・・・」とつぶやいたそうです。そして4月30日にまた入院し、2001年5月4日の早朝、この世を去りました。前の日の晩に、夫の目に涙がたまっていたので、Bさんが「涙拭こうか?」とたずねたところ、夫は「いい、いい」と答えたそうです。これが最期の言葉となりました。

代理人の弁護士から、最後に、裁判について一言求められ、Bさんは「感染するような製剤が世の中に出回ったことについて、もっと監視をきちんとやってもらいたかったです。亡き夫の思いを晴らすためにも、判決がいいものとなるよう願っております」と述べ、主尋問を終えました。

反対尋問では、Bさんの夫が、肝臓が悪いことなどから、医師から飲酒を止められていたにもかかわらず、飲酒を続けていたことに焦点が当てられました。Bさんによると、夫は週に1回程度、ビールを2缶ほど飲んでいたそうです。Bさんも、飲酒は良くないと思い、やめるよう何度も言ったそうですが、眠れない日があると、飲んでしまう、とBさんは述べていました。企業や国は、Bさんの夫が肝臓がんでなくなったのは、医師に止められていたにも関わらず、飲酒を繰り返したことが原因である、と主張したいようでした。しかし、Bさんの夫が血液製剤でC型肝炎ウィルスに感染したことは、ほぼ間違いがありませんし、病気で気力を失ってしまっていたBさんの夫が、医師に止められたからといって、飲酒を簡単にやめることができなくても、仕方ないのではないかと、傍聴していて思いました。C型肝炎ウィルスに感染させてしまったという責任を逃れようとしている国と企業の姿勢を強く感じた反対尋問でした。

次回は、この後に行われた原告番号13番の方の証人尋問をレポートします。

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