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憲法情報Now<憲法関連裁判情報>

 

薬害肝炎訴訟(5)

T・O記

前回に引き続き、2月7日に行われたC型肝炎訴訟の原告本人尋問の様子をレポートします。

この日の最後は、原告番号13番(以下、Dさんと呼びます)の妹さん(以下、Eさんと呼びます)の尋問でした。Dさんは2003年6月12日に57歳で亡くなっています。妹であるEさんは、Dさんが肝炎に感染してからともに行動することが多く、Dさんも、Eさんに「裁判のことを任せる」と言い遺していたため、Eさんが訴訟を引き継ぐことになりました。

Dさんは1984年7月、38歳で第三子を出産しました。その際、大量の出血があり、血液製剤が投与されました。退院後、Eさんと電話した際、Dさんは「お見舞いありがとう。もう元気になったから、子育てを頑張るよ」と話したそうです。Eさんも、Dさんの出産の一ヶ月ほど前に出産しており、その頃は、3日に1度くらいの頻度で電話をしていたそうです。退院2週間後くらいから、Dさんは、「疲れやすい」「体がかゆくなる」と電話で言うようになりました。また、尿が黄色くて、ぶくぶくしている、とも話したそうです。そして出産から一ヵ月後の新生児検診の際、Dさんは産婦人科で診察を受けました。すると、即入院を言い渡されました。8歳の長女と5歳の長男がいたため、その日は入院せず、Dさんの母と一番上の姉に子どもを預けて、翌日、Dさんは入院しました。赤ん坊については、乳児院に預けることになりました。

Dさんは、入院してからも、赤ん坊にあげることのできないにもかかわらず、搾乳を続けていたそうです。退院したら、すぐに赤ん坊にお乳を与えることができるようにするためでした。Dさんが手帳につけていた日記によると、一度に400ccも搾った日もあったそうです。その日記には、そのお乳を与えたいという想いもつづられていました。しかし、Eさんがお見舞いに行っても、赤ん坊に会いたいとは一度も口にしなかったそうです。また、手帳には、肝機能の検査値についても書かれていました。数値が上がると「何かの間違いだ」、下がると「バンザイ」と書き記していたそうです。

その後、Dさんは退院しました。Eさんに電話して、「もう大丈夫、これから子育て頑張らなきゃ」と話していたそうです。しかし、数日後に再び電話があり、「すごく疲れる」と話し、買い物も母や上の姉に手伝ってもらい、家事も、子どもたちに手伝ってもらって何とかこなしていたそうです。体力も落ちていたため、いったん座ると、次の動作にいけず、洗濯が夜になってしまうこともしばしばだったそうです。

退院から2ヵ月後、Dさんは、慢性肝炎との診断を受けました。Eさんがそのことを知ったのは、それから約4年後のことでした。Dさんは、肝炎が治るものと思っていたようだとEさんは語りました。インターフェロンの投与を医師に勧められましたが、お金がかかること、子どもの世話があることから、悩んでいたそうです。Eさんは、インターフェロンが効かないこともあるということを知らず、「やったらいいんじゃない?」と言ったそうです。しかし、Dさんは、その時はインターフェロンの投与を断念しました。

その後、子どもを見てもらえる環境が整ったのと、会社が治療費を負担してくれることになったために、Dさんは、インターフェロンの投与を受けることになりました。しかし、インターフェロンは効かなかったそうです。副作用がつらかったようで、Dさんは、「体にきついから、インターフェロンはもうやりたくない」とEさんに語ったそうです。

それから5年ほどして、Dさんは肝硬変になりました。法廷で、1998年8月頃のDさんの写真を提示され、Eさんは、当時を振り返って、「顔がどす黒かった。母も心配していた」と語りました。その後、Dさんは肝がんになってしまいました。電話で話したところ、肝がんについては、「来るべきものが来た」と、淡々としていたそうです。肝硬変になった時のほうがショックは大きかったようだと、Eさんは語りました。

当時、Dさんは日赤病院にかかっていましたが、医師から、東大病院を紹介されました。しかし、Dさんの住んでいたところから東京が遠いことや、お金の問題から、断念しました。医師は、肝がんについて、「もぐらたたきと同じで、出てきたらたたくことになる。何度も手術が必要です」と告げたそうです。肝移植の道も探りましたが、適合テストや移植手術など、全部で7500万円もかかると聞いて、あきらめたそうです。

Eさんは、Dさんに、第三子出産時のカルテの開示を勧めました。Eさんも情報開示請求に協力し、2001年3月、病院からカルテ開示を受けました。相当な量がありましたが、何枚かめくって、Dさんはすぐに「フィブリノゲン投与」の文字を見つけました。Dさんは、病院のベッドの上で、ショックのあまり気分が悪くなり、そのまま突っ伏してしまったため、医師から、すぐ横になって休むよう指示されたそうです。

2002年末、Dさんは退院し、その直後から仕事へ行こうとしました。Eさんが、なぜ退院してすぐに働くのかたずねたところ、Dさんは、次男が来年受験でお金がかかることと、医療費の負担を少しでも減らしたいからだ、と答えたそうです。また、5年生存率にも挑戦するとも言っていたそうです。

2003年に、Dさんはがんセンターに入院しました。4月半ばにお見舞いに行ったEさんに、医師が、「非常に難しい状態にある。治療が可能かどうか、検討したい」と述べ、さらに余命が3ヶ月であると告げたため、Eさんはびっくりしたそうです。Dさんの子どもたちは、治療のために入院したのに、余命3ヶ月と言われて、何が起きたのかわからない様子で、きょとんとしていたそうです。

5月21日、医師からDさんに余命3ヶ月であることが告げられました。家族全員を呼び集め、医師が、「Dさんの治療はこれで終わりです。もう治療方法はありません。やり残したことがあれば、それをやるのもいいです。痛みの緩和も一つの方法です」と告げました。Dさんは、「治療方法はもうないということですか?」と医師に確認したそうです。医師は、「そうです。そういうことです」と答えたそうです。それを聞いたDさんは、目をひざに落とし、少し泣いた後、「私はまだ頑張ります。何か治療方法があるはずです」と言ったそうです。Eさんは、Dさんの生への強い意志を見て、「最後までしっかり支えよう」と決意しました。一番上の姉は、免疫療法という治療方法をインターネットなどで調べ、それをDさんに行おうとしました。しかし、それを行う病院が横浜にあり、Dさんが電車での移動が不可能だったため、断念しました。

Dさんの胸に水がたまって、呼吸が苦しくなっていたので、それを抜く治療も行われました。このとき、管からは血の混じった水が出てきたそうです。Dさんは、「楽になった」と言っていました。しかし、水は毎日たまり、抜いても抜いても、またすぐにたまってしまいました。Dさんの呼吸は非常に苦しそうだったそうです。

5月の終わり頃、一時帰宅が認められたため、Dさんは自宅へ戻ってきました。しかし、歩くことができず、車椅子でも耐えられない状態だったため、寝台に乗って帰ってきたそうです。胸水は、近所のI医師が来て、抜いてくれていたそうです。また、その時、Dさんは遺言書も書きました。Eさんはそれを手伝いましたが、姉の死が近づいていることを否が応でも感じさせられ、非常に辛かったそうです。一番上の姉は、「まだ生きているから」という理由で、遺言書を受け取りませんでした。Dさんが亡くなった現在も、上の姉は、遺言書を受け取っていません。

6月10日から11日にかけて、Dさんの希望で、結婚前の家族で旅行へ行くことになりました。Dさんの子どもたちについては、「また次の機会があるから」ということで、連れて行かなかったそうです。行き先は、医師から「近場ならよい」と言われていたため、熱海にしました。宿には医師が連絡をしてくれたそうです。そして、車椅子、痛み止めのモルヒネ水溶液、ガーゼを持って、出かけました。熱海では、旅館から海を見せたそうです。しかし、Dさんの状態からして、海は見えていなかったのではないか、とEさんは語りました。

旅館ではモルヒネ水溶液を投与したり、ガーゼを替えたりするなど、Eさんにとっては辛い旅行でした。なぜDさんが旅行に行きたいのか、Eさんにはその理由が分かりませんでした。その日の夕食のとき、Dさんが座布団から降りて、膨れたおなかで、両手を畳について、頭を下げてこう言いました。「みんな、どうもありがとう。ここまでこれたのは、みんなのおかげです」、と。このとき、Eさんは、Dさんが旅行に行きたいといった理由が分かりました。Dさんは、きちんとした形で、みんなに挨拶がしたかったのです。

そして旅行から帰った日の夕方、容態が悪化しました。意識も、あるのかないのか、分からないような状態が続きました。夜11時頃、いつも胸水を抜きにきてくれていたI医師が駆けつけました。Eさんが、「先生が来たよ」と告げると、それまで反応がなかったDさんですが、この時は、ベッドからおり、正座して、I医師に向かい、こう言いました。「先生、いろいろありがとうございました。この体を、自分と同じような病気で苦しんでいる人のために役立ててください」。そう言うと、再び意識を失いました。そして、翌12日の早朝、Dさんは帰らぬ人となりました。

Dさんの子どもたちは、Dさんが5月にがんセンターへ行ったのは、治療して良くなるためだと思っていたため、これほど早くに母が亡くなるとは思っておらず、呆然としていたそうです。また、Eさんも含め、Dさんが亡くなったという認識がなく、現在も入院し治療中という感じがしているといいます。

最後に、Eさんは、「被告も、裁判官も、姉の手帳をよく見てほしいです。“争わず、治療の道を早く見つけてほしい”と書いてあります。薬のせいで、本人のみならず、周りも苦しみます。争っている場合ではありません。姉は情報収集に奔走しましたが、そういうことがないようにしてほしいです」と述べ、主尋問を終えました。

「生きたい」というDさんの強い想い、Dさんに少しでも長く生きてもらいたいというEさんの強い想いが痛いほど伝わってくる尋問でした。法廷でも涙ぐむ傍聴者の姿が目に付きました。

反対尋問では、病状などの事実関係について、確認がなされたりしました。おそらく、Dさんの病状がそれほど重いものではないと主張して、損害賠償額を低くしようという狙いがあるものと思われます。

この後、報告集会が行われ、福岡から傍聴に来た支援者や、大阪・名古屋で行われている訴訟の代理人である弁護士が各地の訴訟の様子を報告したり、支援者の薬剤師や学生たちがこの裁判への想いを語ったりしました。この訴訟は、学生を中心に若い支援者が多く、原告たちにとって、心強いものとなっているようでした。

次回は3月14日午前10時から、103号法廷で、この日と同じく、原告本人尋問が予定されています。また、2月20日には大阪訴訟が結審、続いて2月22日には福岡訴訟が結審の予定となっています。興味のある方は、傍聴に行かれてはいかがでしょうか。

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