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憲法情報Now<憲法関連裁判情報>

 

戦後補償裁判(26)――遺棄毒ガス訴訟6

T.O.記

2005年9月14日、遺棄毒ガス訴訟の口頭弁論が開かれました。夏休みだったこともあってか、若い人が多く傍聴に参加していました。また、中国での遺棄兵器を追ったドキュメンタリー映画『にがい涙の大地から』の監督である海南友子さんの姿もありました。

この日は、敗戦時に毒ガス兵器を遺棄したという元軍属のKさんが証言台に立ちました。日本政府が、敗戦時は混乱していて、毒ガス兵器を遺棄する余裕はなかった、また毒ガス兵器はソ連に引き渡したのであり、遺棄したのは日本ではない、という主張をしているため、実際に毒ガス兵器を遺棄したという元軍属の方に、証人尋問を行なったのです。

Kさんは、15歳のときに、満蒙開拓青少年義勇軍に入隊し、訓練を受けていました。しかし訓練が終わる前に、ハルピンの部隊と合流するよう命じられ、その後、興隆鎮の関東軍弾薬庫の警備に当たることになりました。

1945年8月の上旬、基地の隊長から、次のような命令を受けました。「これからいくつかの班に分かれてもらう。そして班長の命令に従って、できるだけ深い穴を掘り、そこへ弾薬を捨てよ。4−5日の間に終わるよう、全力を挙げるように」、と。そして、その日は作業の準備をして、翌日から作業に入りました。

Kさんは、自身の記憶を頼りに作成した基地の見取り図を示しながら、具体的にどの地点で作業をしたのかを証言しました。Kさんらが穴を掘ろうとした場所は、地盤が固くて掘れなかったため、すぐ近くの古井戸に捨てることにしました。古井戸に最も近い弾薬庫から、班長の指示に従って砲弾の入った箱を運び出し、古井戸へ放り込んでいきました。弾薬庫の中の砲弾をすべて運び出したのではなく、班長が指示したものだけを運び出し、捨てたそうです。

班長が指示する弾薬の基準はよくわからなかったのですが、作業の途中で、古井戸に捨てきれないということから、箱の中身だけを捨てることにしました。そのとき、Kさんがみたものは、赤い線の入った砲弾、黄色い線の入った砲弾でした。そして、原告側代理人が示した旧日本軍の毒ガス兵器の形を見て、形状がよく似ていると証言しました。

作業の合間には、休憩がとられました。そのとき、Kさんのすぐ脇で、兵士の人たちが、「今捨てている兵器は毒ガスらしい。国際法違反だから捨てるそうだ」と話していたのを聞いたそうです。それでKさんは、遺棄対象の砲弾が毒ガス兵器であることを知ったのです。

作業を始めて四日目の午前中、隊長から伝令があり、こう伝えられました。「日本は連合軍に無条件降伏した。ソ連軍が迫っている。武器を集めて広場に積み上げるように」、と。そこで、毒ガス兵器の遺棄作業を中止し、小銃や銃剣などを集めて、基地内の広場に集めました。その作業が終わったころにソ連軍が到着し、Kさんらはそのまま身柄を拘束され、シベリアへ送られました。

Kさんが帰国したのは1947年12月でした。その際、日本政府からは、毒ガス兵器について、問い合わせは一切ありませんでした。その後、毒ガスのことについては忘れていましたが、2003年8月4日のチチハルでの毒ガス事故をニュースで見て、愕然としたそうです。自分自身が毒ガス兵器を捨ててきたことを思い出し、井戸に捨てたことから、地下水を伝って広範囲にわたって被害が生じているのではないか、と不安になったからです。

そして、ニュースを見て以来、自分が毒ガスを捨てたことを伝えなければならない、そう考えるようになりました。そして、ある日、中国の遺棄兵器問題のドキュメンタリー映画を製作した海南友子さんを新聞の記事で知りました。それをきっかけに、Kさんは、海南さんとともに中国へ渡り、自分が毒ガス兵器を捨てた場所を訪れました。

「ひょっとしたら、自分の捨てた毒ガス兵器のために、事故が起きているかもしれない。もしそうだったら・・・」。Kさんはこう言うと、言葉につまり、嗚咽し始めました。しばらく嗚咽した後、Kさんは再び証言を続けました。実際、現地で、遺棄された兵器によって死傷者が出ていました。毒ガス兵器ではなく、通常兵器で事故にあった人が一人生存しており、その人と会いました。右腕と左目を失っていたその人に対し、Kさんは謝罪したそうです。また、基地跡は畑になっていましたが、戦後5年ほどは、作物が育たなかったといいます。これを聞いたKさんは、毒ガスのせいではないか、と考えたそうです。

最後に、証言を決意した理由を問われ、次のように答えました。「海南さんと連絡を取った後、弁護士が何度も話を聞きに来て、証人になってほしいと言われました。しかし、裁判になっているのはハルピンでの事故であり、Kさんが毒ガスを遺棄したのは興隆鎮であって、事件として異なります。そのため、何度も断りました。ところが、裁判で問題となっているのが、遺棄行為が組織的に行われたものであるかどうかであると知り、それならば自分も証人として証言する意味がある、と思いました」。また、遺棄行為に責任も感じており、そのことも、証人になることを決意させたひとつの理由だそうです。

Kさんの証言により、毒ガス兵器が旧日本軍の組織的な行為によって、中国に遺棄されたことが明らかにされました。次回の期日では、Kさんに対して、国側の反対尋問が予定されていますが、国は、Kさんの証言のあら探しをするよりも、中国の大地に遺棄された毒ガス兵器を探し出し、処理することに専念すべきではないでしょうか。

次回は、10月31日午後1時半から、101号法廷で、Kさんに対する反対尋問のほか、吉見義明教授への尋問が行われる予定です。興味のある方は、法廷へ足を運んでみてはいかがでしょうか。

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