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憲法情報Now<憲法関連裁判情報>

 

戦後補償裁判(29)――海南島戦時性暴力訴訟2

T.O.記

2006年3月8日、東京地裁において、海南島戦時性暴力訴訟の口頭弁論が開かれました。この日は原告本人尋問が行なわれ、原告の証言を聴こうと、100名を越す傍聴希望者が集まりました。

この日、証言台に立った原告の方は、陳亜扁さんです。彼女は黎族という少数民族で、黎語しか話せないため、中国語を解する日本人の通訳と、黎語を解する中国人の通訳の二重通訳となりました。つまり、日本語で質問を行い、それを日本人の通訳の方が中国語に翻訳し、その中国語を中国人の通訳の方が黎語に翻訳して、証人尋問が行なわれたのです。この様な形で行われた証人尋問においてなされた、原告・陳亜扁さんの証言を報告したいと思います。

陳さんは1927年12月生まれ、現在78歳になります。日本軍に拉致された時は14歳でした。農作業をしていた時、銃で武装した日本軍の兵士がやってきて、陳さんを租関村の軍営地に連れて行き、彼女を鍵のついた部屋に監禁しました。部屋の外では、銃を持った兵士が監視しており、逃げ出すことはできませんでした。

拉致されたその日、陳さんはお米をふるいにかけてゴミを取り除く作業を命じられました。その翌日、兵士に突然抱きつかれ、抵抗したところ、その兵士に殴られ、そのまま強姦されました。その日から、陳さんは兵士たちに強姦され続けました。強姦されない日もありましたが、日によっては複数の兵士に強姦されたこともありました。兵士たちに抵抗して殴られたことも何度もあるそうです。こうした生活が3ヶ月ほど続きました。

その後、藤橋という場所へ移動させられました。ここでは建物の2階に監禁されました。1階部分にはすでに女性がおり、陳さんは、自分と同じように拉致されてきた女性だと思ったそうです。ここでも、毎晩夜10時頃になると兵士がやってきて、陳さんを強姦しました。時には2人、3人の兵士に犯されたそうです。ここでも自由はなく、用足しの時でさえ兵士の監視の下で行わなければならなかったそうです。藤橋には2年ほど監禁されていました。陳さんは涙をぬぐいながら証言しました。

その後、陳さんは再び租関村に戻されました。村には日本軍の通訳を務めていた者がいて、陳さんの母が彼を通じて、村に戻ることができるよう日本軍に頼んだためです。しかし、租関村でも監禁は続き、結局母には会えないままでした。そしてここでも毎日のように強姦が続きました。

尋問を行っていた弁護士から、一番辛かったことは何か、と尋ねられると、陳さんは突然大きな声をあげ、証言台に突っ伏して号泣し始めました。傍聴席も息をのんで陳さんの様子を見守っていました。少しして、陳さんは再び話し始めました。一番辛かったのは、何度も強姦されたこと、それが原因で、目や足を悪くしたこと、心の痛みも加わって、非常に辛い思いをしたことだそうです。

そして、1945年8月15日の解放後ですが、日本軍にまた拉致されるかもしれないという恐れから、一ヶ月ほど山の中に隠れていたそうです。その間、母親が食事を運んできてくれました。家に戻ってからも、悪夢でうなされ、安眠できない日々が続きました。

監禁されていた状況についてですが、租関村で監禁されていた時は、ベッド一台が置かれ、それ以外の空間がほとんどない、狭い部屋に閉じ込められていたそうです。窓もなく、照明も、ランプがあっただけで、それも夜にならないと点けてもらえなかったといいます。自由な時間はなく、入浴もなく、たらいにもらった水で体を洗うにとどまりました。

藤橋で監禁されていた時は、租関村の時よりもさらに狭い部屋でした。窓はありましたが、監視が厳しく、建物の外だけではなく部屋の前にもいたといいます。

こうした被害者を、「売春婦だ」とする声もあります。そこで尋問では、強姦された際にお金をもらったかどうかが尋ねられました。しかし陳さんははっきりとそれを否定し、抵抗して殴られたことならある、と答えました。

解放後しばらくして、24歳で最初の結婚をします。相手は、日本軍の手先として、軍に様々な情報を通報していた人物でした。陳さんは彼のことがとても嫌いだったそうですが、強引に結婚させられてしまったといいます。しかし、一年ほどして、中国共産党が彼の戦時中の行為を問題視し、逮捕したそうです。

その後、26歳で陳さんは再婚しました。このときは、お互い愛し合っており、相手は陳さんの過去についても、日本軍に無理やりされたということに理解を示してくれたそうです。そして陳さんは妊娠しました。しかし、8回にわたって流産してしまったそうです。中には8ヶ月まで育ち、胎動まで感じていたにもかかわらず、流産してしまったケースもありました。何度も流産を繰り返したため、自殺しようと考えたこともあったそうです。しかし夫から「大丈夫だよ、子どもを生むことができるから」などと励まされ、自殺をようやく思いとどまりました。

あまりに流産を繰り返すため、陳さんは病院で検査を受けました。その結果、日本軍兵士に何度も強姦されたことから、子宮と骨盤がゆがんでしまっており、それが原因であると分かりました。医師からは、このゆがみを矯正して元に戻さないといけない、戻せば妊娠・出産できる、と言われたそうです。そこで、3年にわたる治療と1年の入院を経て、9回目の妊娠をし、最初で最後の子どもを出産しました。

夫婦生活を営む際、日本軍兵士に強姦された記憶がよみがえり、夫を拒否してしまうこともしばしばありました。その度に、夫は優しく「私はあなたの夫だよ」と慰めてくれて、ようやく夫婦生活を営むことができるようになる、ということが何度もあったそうです。しかしその夫も今は亡く、それ以来、再び悪夢で眠れない日もあるそうです。

近所の人は、陳さんの過去を知っており、蔑視したり、悪口を言ったりするそうです。例えば、「日本軍にレイプされたから男の子が生めず、女の子を生んだんだ」などといわれたといいます。性暴力を受けた被害者は、戦争が終わって60年以上が過ぎた今でも、このような差別・偏見に苦しんでいるのです。

最後に、政府に対して言いたいことを尋ねられ、陳さんは、「私が高齢を押して今日ここに出廷したのは、日本が過去に犯した罪を認めて、謝罪してほしいからです。そして賠償してほしいです」と答えました。また、裁判官に対して言いたいことを尋ねられ、「今日、あなた方は私が述べたことを聞きました。その事実を直視してください。そして公平な裁判をしてください。私は高齢ですから、一刻も早く判決をお願いします」と答え、主尋問が終了しました。

続いて国側の反対尋問が行なわれました。2001年に提訴したことについて、そのきっかけを尋ねました。陳さんは、自分が受けた悲惨な被害を認めてほしかったからだ、と答えました。これに対して国側は、初めて提訴を考えたのはいつか、と尋ねました。陳さんは、1995年に、歴史研究者が自分の家を訪ねてきて、陳さんの話を聞いて、それで裁判をすることを考えた、と答えました。これに対して再主尋問がなされ、陳さんに対し、2001年以前に、裁判を起こす手段を有していたかが問われました。それに対して、陳さんは質問の意図が分からなかったのか、きちんとした答えはなされませんでしたが、その答えからは、少なくともそれ以前に陳さんが裁判を起こすことができたとうかがわせる事情は見当たりませんでした。

以上が、原告本人尋問の様子です。陳さんの証言の具体性や、その態度は、とても嘘を言っているようには見えませんでした。私自身、聞いていて、本当に胸が痛くなるものでした。陳さんが証言を終えると、傍聴人の何人かが拍手し、中には陳さんに握手を求める方もいるほどでした。それほどまでに、陳さんの証言は、それを聴いていた人たちの胸を打つ内容でした。

午後6時半からは、証言集会が早稲田奉仕園で開かれました。集会の中心となったのは、ハイナン(海南)NETという、学生たちが中心になって立ち上げた、本件訴訟の支援団体です(HPはこちら:)。この集会には100名を越す人たちが集まりました。そして、2月の末に行われた海南島スタディツアーの報告、弁護団からの訴訟の報告などがありました。続いて、この日法廷で証言を行った陳さんが、この集会でも証言を行いました。残念ながら、陳さんは来日したばかりであることや、法廷での証言などで疲れてしまっており、じっくりとお話しをうかがうことはできませんでしたが、裁判に対する想いなどを語って下さいました。

次回は3月22日午後1時半より、東京地裁103号法廷で行われ、結審する予定です。興味のある方は、ぜひ法廷まで足を運んでみてください。

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