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戦後補償裁判(32) 遺棄毒ガス・砲弾訴訟

T.O.記

2006年4月24日、東京高裁において、遺棄毒ガス・砲弾訴訟の口頭弁論が開かれ、劉振起さんと孫文斗さんに対して、原告本人尋問が行なわれました。以下、尋問の様子をレポートします。

機械工であった劉振起さんは、1974年10月20日、紅旗09号という浚渫船で、川底の泥をポンプで吸い上げる作業に従事していました。夜中の2時ごろ、ポンプで大きな音がしてエンジンが停止しました。ポンプが異物を吸い上げたためでした。その異物は、錆びた砲弾でした。それをポンプから取り出すと、中から、腐ったニンニクのようなにおいのする液体があふれました。

代理人弁護士が、その砲弾のイラストを書くよう、劉さんに求めました。そのイラストは傍聴席からは見えませんでしたが、代理人によれば、先端が黒く塗りつぶされて、また胴体には3本のラインが入ったものでした。図の説明を求められた劉さんは、まず黒く塗りつぶした先端は、ポンプとぶつかってできた傷であり、そこから液体が漏れた、と述べました。また3本のラインは、銅かなにかで作られたものであり、黄色か紫だった、と証言しました。このラインは、日本製の毒ガス弾の特徴と一致します。

劉さんは、においがあまりにきつかったため、その砲弾を上のデッキにあるトイレの脇に置きました。12時間ほどトイレの脇に放置した後、劉さんが川に捨てました。というのも、砲弾を拾った後、吐き気、めまい、目の痛みなど体調が悪くなり、手や足に水泡ができ、その原因が砲弾だと思ったからです。

吐き気、めまいなどの症状がよくならないため、作業を中断し、デッキに上がって新鮮な空気を吸いましたが、症状はよくなりませんでした。その後、手が赤くはれ、赤い斑点ができました。それは水泡となり、ピンポン玉ほどの大きさにまでなったそうです。

治療のためにジャムスの224病院へ行きましたが、原因や治療方法がわからなかったため、治療を受けられませんでした。そこでハルピン医科大学付属病院へ行きましたが、そこでも十分な治療を受けることができませんでした。その間に、水泡が破れ、黄色い液体が出てきて、非常に痛んだそうです。治療方法がわからなかったため、両手を切断するという話まで出たと言います。しかし、会社が反対したため、手の切断は免れました。

その後、瀋陽202病院へ移りました。そこで50日ほど入院しました。そこでの治療方法は、くさった肉をはさみで切り取る、はさみのとどかない部分はガーゼでこすりとる、そして傷口を塩水とアルコールで消毒する、というものでした。これが毎日続いたそうです。あまりの痛みのため、暴れるため、看護婦に押さえつけられて治療されたそうです。痛みに耐え切れず、失神したこともありました。治療の痛みに耐えながら、自分の人生がこの先どうなるのか、不安に思っていたといいます。

治療についての証言をするとき、劉さんはずっとうつむき加減でした。言葉も、証言を始めた頃に比べ、ややぼボソボソとした感じでした。思い出すのが辛い記憶だったのでしょう。実際に傍聴席からも、過酷な治療方法に声が上がるほどでした。

その後、劉さんは退院しましたが、すぐに仕事に復帰したわけではなく、自宅療養を続けました。その間も、手に赤い斑点が出て、痛みました。1975年12月からは、毒ガス治療の専門病院である北京の307病院に入院しました。というのも、症状が悪化して、指と指がアヒルの水かきのような形でくっついてしまったため、それを手術する必要があったからです。

それから1年後、劉さんは仕事に復帰しました。しかし、命じられたのは、事故前にしていた修理工ではなく、警備や倉庫の管理人、運転手などの仕事でした。同僚が、毒ガスの被害が感染するといって、劉さんと一緒に仕事をするのを嫌がったため、一人でできる仕事を割り当てられたのです。

また、仕事に復帰したといっても、体調が悪くて休む日も少なくなかった上、出勤しても、たびたび休憩が必要でした。そのため、同僚たちから「なまけている」と非難されたこともあったそうです。結局、1995年から休職します。このとき、劉さんはまだ42歳でした。結局、仕事に復帰することなく、2000年に退職しました。

現在も、毒ガスの被害が続いています。心臓が悪く、3−4日に一度、発作が起きます。証言の3日前にも発作を起こしたそうです。また、早く歩いたり階段をのぼったりすると、呼吸困難の症状も出ます。これらの症状は少しずつ悪化しているそうです。そして、これらの症状については、医者から、「毒ガスの被害が原因だ」と言われたそうです。他にも、40代半ばから歯が抜け落ち始めました。他の毒ガス被害者も同じように歯が抜けているそうです。これについても、歯科医から、「毒ガスの影響だ」と診断されたそうです。さらに、無気力、目の痛み、倦怠感、視力低下、両手の皮膚がつっぱる、赤い斑点ができかゆくなる、怪我が治りにくく、切り傷などが治るのに一ヶ月以上かかる、咳、のどの渇きなどの症状があると言います。いずれも、毒ガス事故にあってから現れた症状だそうです。

こうした後遺症があることから、現在もつきに一回程度、通院しているそうです。以前は医療費が3割負担だったのですが、昨年10月から特別な保険証を給付され、医療費は全額会社が負担してくれています。

事故にあう前、劉さんは、仕事に対して熱意を持って取り組んでおり、出世したいという希望も持っていました。事故にあわなければ、当時の同僚のように、船長にもなれたはずでした。しかし、事故にあったため、管理人や運転手といった、体力のない人達に与えられる仕事しかできませんでした。

劉さんは、1981年に結婚しました。妻には毒ガスの被害者であることを隠していました。というのも、過去2回お見合いをして、毒ガス被害者であることを明かしたところ、結婚を断られてしまったからです。妻には1995年まで毒ガス被害者であることを隠し続け、体調不良で仕事を休む時も、風邪を引いたなどと言い訳をしていたそうです。また、選択や炊事、掃除などの家事の手伝いや、子どもと遊ぶといったことさえも、満足にすることができませんでした。

1995年、対日戦争勝利50周年ということで、メディアが盛り上がり、毒ガス被害者である劉さんのところにも取材が来ました。それがきっかけで、妻に毒ガス被害のことを明かしました。妻は怒って、「離婚してほしい」「人生を台無しにされた」と、劉さんを責めたそうです。娘には、「友だちがいなくなるから、人には言わないで」と言われたそうです。現在は何か言われるということはないそうですが、きっと心の中では、悲しい思いをしているのではないか、と劉さんは述べました。

代理人弁護士から、一番辛かったことを聞かれ、劉さんは、「家族、妻、子どもに申し訳ない気持ちでいっぱいです。自分の人生についても、健康が悪化し、収入が同世代の半分しかなく、この先どうしたらいいのか、いつも悩んでいました」と答えました。そして最後に、裁判所に対して、「被害者の尊厳を守ってほしい」と訴えました。

続いて、孫文斗さんが証言台に立ちました。

1982年7月17日、当時22歳だった孫さんは、ポンプ工として下水道の工事に従事していました。朝6時から、孫さんは、溝の中で、たまった水を吸い出す作業を行っていました。作業をしていると、黒い水が流れてきていることに気が付きました。さらにその水からは、カラシとニンニクを混ぜたような刺激臭がしていました。ポンプで水を吸い出していくと、底から缶が出てきました。黒い水はその缶から漏れているようでした。

孫さんは、その缶が何かと思って近づきました。その缶は、高さ70〜80センチ、直径が50センチほどのもので、穴が開いており、そこから黒い水がもれ出ていました。その穴から中を覗き込みましたが、何も見えませんでした。しかし、強烈なにおいと目への刺激から、その場を離れ、作業に戻りました。しばらくすると、班長がやってきて、「昨日そこで爆弾が出た。急いで上がりなさい」と言ったので、あわてて外へ出ました。

その後、孫さんは帰宅します。その途中で、咳、めまい、吐き気などの症状が現れました。帰宅後、横になって休んでいたところ、食事に呼ばれました。起きてすぐ、吐き気を覚えたためにトイレへ向かいました。そのとき、足が痛むことに気が付きました。ズボンのすそをまくってみると、赤くはれ上がっていました。そこで病院へ行きましたが、原因や治療法がわからず、いくつかの病院を回りましたが、きちんとした治療を受けることなく帰宅しました。

その間にも症状は悪化し、足には豆くらいの水泡ができ、膿が流れ出ていました。家で休んでいると、工場の副主任が来て、「病院へすぐ行きなさい。日本軍の毒ガスによる中毒だ」と言いました。そこで牡丹江第一病院へいき、一晩入院しました。その後、解放軍209病院へ転院し、28日間入院しました。入院中辛かったのは、めまい、吐き気、卵大の水泡の痛みとかゆみ、そして治療の際に水疱から膿をだすときの痛みでした。

そして、孫さんは、ズボンのすそをまくり、足に残る水疱のあとを見せようとしました。残念ながら裁判官の席から傷跡は見えなかったようですが、孫さんの想いは伝わったように思いました。それから、傷跡だけではなく、現在も、光がまぶしい、咳や下痢、歯が抜けるといった後遺症があるそうです。

その後、孫さんは職場に復帰したそうですが、体力の低下などもあり、ポンプ工としての仕事はさせてもらえませんでした。そして2003年、会社のリストラにあい、現在は無職です。現在の収入は、妻の年金と、孫さん自身のアルバイトによるものだけです。治療費が収入を超えているため、親戚から借金を繰り返しています。

1984年に結婚しましたが、劉さんと同じく、何度も見合いをしたのですが、マスタードガス中毒だと知ると、みんな断ってきたため、今の妻には、そのことを言いませんでした。ところが、抗日戦争勝利50周年の取材をマスコミから受けたため、妻に被害のことを知られてしまいました。妻は「だまされた」と怒ったそうです。子どもも、クラスメイトが遊んでくれなくなってしまいました。

ここで、孫さんのお子さんから、毒ガス訴訟の支援者を通じて、日本の子どもたちへ送られた手紙が紹介されました。そこでは、父親である孫さんが、子どもの学費のために、高価な薬を我慢する姿などが記されていました。代理人がこれを読んでいる時、孫さんは、「息子に申し訳ない」といって、泣き始めました。子どもは、なんども「学校をやめたい」と孫さんに泣きついたそうですが、孫さんは、「自分はもう働けないから、お前は自分で自分を養わなければいけない。そのためにも、学校へ行きなさい」と説得したそうです。

子どもが、友だちができずいつも一人でいる、という状況が信じられなかったため、ある日、孫さんは学校へこっそり出かけました。そこで目にしたのは、一人で遊んでいる孫さんの子どもでした。その子が、遊びにいれてもらおうとして友だちのところへ行くと、みんなが逃げていってしまいました。この光景を見て、孫さんは辛くて泣いてしまったそうです。

こうした日々が続いた孫さんの子どもは、高校進学を嫌がり、孫さんも説得をあきらめました。その後、孫さんの子どもは、いわゆる引きこもりの状態が続いたそうです。そのため、親戚に頼んで就職先を探しました。しかし、人付き合いがうまくできず、どの職場も長続きしませんでした。

ここで再び、孫さんのお子さんからの手紙が紹介されました。長くなりますが、引用したいと思います。

「慶祝抗日戦争勝利50周年を迎えたとき、私の父の事が新聞紙上に載り、記事やいろいろな人のインタビューを受けるようになりました。中には日本からの新聞記者も来ましたから、そのとき初めて「マスタードガス」と「毒ガス弾」の本当の意味を知りました。特にテレビで父の被害の実情が放映されました。多くの同級生が父をテレビで見てからは、同級生や友人の様々な議論が時に私を襲ってきました。特に同級生や友人が異様な目で私を見るようになりました。それはまるで怪物を見るようでしたから、私は全身が気詰まりで耐えられなくなりました。
ある友人は父が芥子気の被害者なのだから君にも同じ毒があるだろうと言い他の同級生にも私と一緒に遊んでいけないと言いました。以来私は子供たちの中で孤立し、誰も私と遊ぼうとはしませんでした。学校の運動場で、友人たちが楽しそうに遊んでいるのを見ましたから、私は何回も一緒に遊ぼうと近づきましたが私が近づくのを知ると皆いっせいに別の所に行ってしまいました。私は只仕方なく呆然として友人たちの楽しさに孤独を味わいました。
私は本当に心から怒り憎みました。どうして?どうして私は彼らと一緒に遊べないのか?私が一体どんな罪を犯したと言うのでしょう?どうして他人に白眼視され蔑視されなければならないのでしょう?どうして私がこんな家に生まれたのでしょうか? 毎回あのときの事を思い出すと地の中に身を隠せないのがとても残念にさえ思いました。誰も私を見ることが無く、私も誰にも会いたくありませんでした。父に対しても恨みが増して、家に帰ると直ぐに自分の部屋に入り、誰とも会わず口を利こうとしませんでした。
私は完全に自分の殻の中に閉じこもって誰とも往来しませんでした。私は父に何回も学校を止めたいと要求しましたがそのたびに父に拒絶されました。このような環境の中で子供時代を過ごし、やっとのことで中学を卒業し、以後はどんなに言われても学校へ行かないと言いましたから、父は仕方なく同意しました。その後はずっと家に籠もって全く外へ出ず、一年近くも経ちました。父つてを頼んで仕事を探してくれましたが、私はどの職場でも他人と口を利かないので仕事が続けられず、父も困って私を参軍させました。
軍隊でもう一年以上になりました。私は今この新しい世界で考えを改めました。今は多くの戦友たちと笑ったり話をしたりしていますが私は父のこの処置にとても感謝しています。私は苦悩の多い経歴から、心の底から中日両国が永遠に戦争をせず、平和を守り何時までも中日が友好していくことを願っています」。

最後に、日本政府に対して訴えたいことを聞かれ、「政府は現実を直視し、被害者に対して公平な態度で望んでほしい。被害者に対して謝罪し、損害を賠償し、日本で治療を受けられるようにしてほしい」と述べ、尋問を終えました。

毒ガスの被害が、非常に過酷なものであること、そして被害が過去のものではなく、現在もなお続いていること、被害が被害者だけではなく、家族にも及んでいることがよくわかる証言でした。特に、孫さんの子どもが受けた心の傷は、どうやっても償うことのできない大きなものだと思います。私は気が付かなかったのですが、弁護士によると、孫さんのお子さんの手紙が紹介された時、国側の代理人や裁判所書記官も涙を流していたそうです。

今後の予定は、次回が6月21日午後1時45分より810号法廷で、次々回が9月6日午前11時より810号法廷で、その次は11月22日午後1時半より101号法廷で、口頭弁論が開かれます。

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