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戦後補償裁判(33)――強制連行新潟訴訟控訴審2

T.O.記

2006年4月26日、東京高等裁判所において、強制連行新潟訴訟の口頭弁論が開かれました。この日は、強制連行され、強制労働させられた3名の被害者に対する証人尋問が行なわれました。以下、その証言をレポートします。

最初に、?念芳さんの尋問が行なわれました。

1944年11月9日、?さんたちは、日本軍の兵士が100名ほどで村に向かっていると知り、みんなで逃げました。しかし、若い人を中心に11名が捕らえられ、縄で縛られた上で、連行されたのです。?さんは当時20歳でした。そして20キロほど歩かされた後、トラックで移動し、青島に到着しました。この間、兵の監視が厳しく、逃げることはできませんでした。また、食事も粗末なもので、トウモロコシの饅頭が一食につき1個与えられただけでした。

青島からは、行き先も伝えられないまま、硫黄を運ぶ貨物船に乗せられました。布団は与えられず、貨物船に積まれた石の上で寝たそうです。船には、?さんのように強制連行された300〜400人ほどの中国人が乗せられていました。船の上では自由行動が許されず、また食事もトウモロコシのお粥でした。劣悪な環境のため、船中で死亡する人もいました。死亡した人は、板にくくりつけられ、海に投げ捨てられたそうです。

青島を出て23日後、下関に到着しました。そして何の説明もないまま、新潟まで連行されました。この年、新潟は100年に一度といわれるほどの寒さに見舞われ、?さんが新潟に到着した時、2メートルほどの雪が積もっていたそうです。それほどの寒さであったにもかかわらず、衣類は連行される途中で支給された綿入れのみで、しかも綿は移動中に抜け落ちていました。また、宿舎でも暖房はなく、板の上にわらが敷かれていただけでした。そのため、支給された麻袋を防寒のために巻きつけていたそうです。それでも凍傷になり、つめがはがれてしまいました。その時の傷は今も残っています。

風呂がなかったため衛生状態も悪く、シラミなどが発生しました。食事はどんぐりのご飯で、消化が悪く、下痢や便秘を起こす人もいました。こうしたことから、大勢の病人がでて、死亡する人も少なくありませんでした。一日に20〜30人が死亡したという話も耳にしたといいます。一緒に連行されてきた?さんの叔父も、高熱を発し、腹痛を訴え、嘔吐を繰り返した後、死亡しました。

労働については、事前に何の説明もありませんでした。賃金の話もされませんでした。毎朝、夜明け前に起こされ、仕事に行き、そして日が落ちてから帰るという生活が続きました。休憩や休日はありませんでした。仕事の内容は、石炭などを列車や倉庫に積み込むといった作業が主なものでした。

作業の最中に暴力を振るわれることもありました。?さんが倉庫に荷物を運んでいる最中、箱が壊れ、魚の尻尾が見えました。普段、落ちているゴミのようなものでも争って食べるような状況に置かれていた?さんは、魚を見て、我慢できず、思わず食べてしまいました。しかし見つかってしまい、二人の日本人から、1メートルほどの棒で殴られました。止めに入った仲間も殴られました。?さんは、中国にいる姉を思い出し、悲しくなったといいます。?さんは、動くこともできず、そのままその場に放置されていましたが、夕方になって、仲間の手を借りて、ようやく宿舎にたどり着いたといいます。それから1週間ほどは動くこともできず、作業を休みました。

強制労働に従事していた当時、?さんは、これで自分の一生は終わった、生きて帰国することはできないと思い、絶望していたといいます。被告企業リンコーコーポレーションが、食事も給料も与えており、娯楽施設もあったと主張している事に対して、?さんは、「全くのでたらめだ。映画を見たことはないし、日本のお金も見たことはない」と、怒りをこめて証言しました。

?さんは、敗戦後、帰国することができました。しかし、皮膚病がすぐには治らず、完治まで半年を必要としました。また心臓が今も悪く、薬が手放せません。凍傷の跡も、とくに天気の悪い日にはかゆくなり、それによって強制労働の日々を思い出すといいます。

そして、「裁判官は、この事情を受けとめ、理解し、公正で合理的な判断をしてほしい。被告企業と政府は、全ての損失に対して賠償と謝罪をしてほしい」と述べました。

さらに、補佐人である中国人弁護士・康健氏からも質問がなされました(補佐人からの直接の質問が認められることは、非常にまれです)。被告側が、中国人は風呂に入る習慣がないと主張していることから、康健氏は、当時の生活習慣はどうだったのかと質問しました。?さんは、「被告側の主張は全くのでたらめであり、中国人を侮辱し馬鹿にしている。自分は貧しい農民だったが、近くにきれいな川があり、そこで毎日水浴びしていた。冬は湯を沸かして体を拭いていた」と、怒りを含んだ調子で答えました。また、食事として与えられていたどんぐりは、中国では豚のえさとして用いられているという証言もなされました。

被告側からは何らの反対尋問もなされず、?さんの証人尋問は終了しました。

続いて、王成偉さんが証言台に立ちました。王さんは、1944年9月8日に捕まり、連行されました。当時18歳でした。

夜、王さん一家が寝ていると、銃を持った兵士が家に入ってきて、王さんと父親、それから隣に住んでいた叔父に縄をかけ、連行しました。その間、八路軍ではないかと、執拗に問い詰められました。そして、「(八路軍として)道路や線路を壊しただろう」と言われ、殴られたこともあったといいます。

その後、青島から日本へ連れて行かれました。この間、どこに、何のために連れて行かれるのか、説明は一切なかったそうです。早く家に帰りたいと思っていましたが、逃げるすべもなく、どうすることもできませんでした。

船では、?さんと同様、石の上に寝ていたそうです。トイレの時以外、デッキへあがることは許されず、一日中湿っぽい船底に居ました。また食事もトウモロコシ粥ばかりでした。衛生状態・栄養状態の悪さから、病人が続出し、死亡者もいたそうです。王さん自身も皮膚病でつらい思いをしました。

新潟では、失明者が多く出たほか、夜盲症、皮膚病、関節炎といった症状に悩まされる人が少なくありませんでした。王さん自身も、船中で発症した皮膚炎を悪化させてしまったそうです。亡くなる人も多く、日に30人死んだ日もあったそうです。また体調を崩しても、薬もなければ医者の診察も受けられませんでした。医者の診察は、手足を切断するくらいの大怪我でないと受けられなかったといいます。

帰国後も、体調が完全に戻ることはありませんでした。また、中国共産党への入党申請も、日本で労働していたことを理由に却下されました。息子2人も、解放軍への入隊を拒否されたそうです。

政府・企業に対して言いたいことはないか、と尋ねられた王さんは、「過ちと罪を認め、この悲惨な歴史に対して、謝罪と賠償をしてほしい」と述べました。

また、補佐人である康健氏から、王さんが作業中に落ちていた大豆を生のまま食べて殴られたという事件について、中国では大豆を生で食べることはないが、どうしてそのようなことをしたのか、という質問がなされました。王さんは、「それほどまでに飢えていたからです。ゴミあさりまでして飢えをしのぐ生活だったんです」と答えました。

王さんに対しても、被告側からの反対尋問はなされませんでした。

最後に、安登山さんが証言台に立ちました。安さんは、当時、農民をしていましたが、家族を養うために、国民党軍の抗日挺身隊に入隊しました。しかし、指導者が日本軍に投降したため、日本軍の下で労働をさせられることになりました。現地で、飛行場建設などの作業に従事したといいます。

その後、日本へ連行されました。新潟では、貨物船で運ばれた荷物を積み下ろしする作業などに従事しました。

安さんは、当時の作業について問われ、興奮のためか、立ち上がり、大きな声で叫び始めました。通訳や代理人弁護士になだめられても、すぐには落ち着かず、涙を流したり声をあげたりしていました。通訳によると、「心が苦しくて、落ち着いていられない」と言っていたそうです。戦後60年が経ってもなお、被害者の心の苦しみが続いているということを、まざまざと見せつけられ、私も胸が痛みました。

安さんも、作業中に暴行を受けたことがあります。麻袋を運んでいたとき、うっかり落としてしまい、中身の大豆が散らばりました。日本人の監督がそれを見て怒り、棍棒で殴られたそうです。安さんはこのとき、「中国人は大豆以下の存在なのか…」と、悲しく思ったといいます。

1950年頃、安さんは帰郷しました。ところが、母と弟は、この世の人ではありませんでした。一家の働き手であった安さんが日本に連行されたため、貧しい生活を強いられた安さんの家族は、近所の畑から農作物を盗んでいました。それが見つかり、殺されてしまったのです。

そして最後に、裁判官に対し、「企業が全ての損失を賠償するよう、公平で合理的な判断をお願いします。立場を変えて、私のように殴られたらどういう気持ちになるか、考えてください」と述べました。

安さんに対しても、被告側からの反対尋問はなされませんでした。

被告側が、反対尋問を一切しないのは、事実の認否をしていないからです。こうした態度は、戦後補償裁判に全般的に見られる立場です。政府・企業は、国家無答責や時効・除斥を主張して、法的に成立しない訴えであるとして、その点の判断だけすればよく、事実の認否は必要ない、と主張しているのです。

しかし、国家無答責や時効・除斥も、絶対の基準ではなく、適用が排斥されたり、制限されることがあります。それを判断するためには、事実の検証が欠かせません。また、事実を明らかにするという裁判の役割を考えても、その態度は決して認められるべきものではないでしょう。

次回は7月31日午後1時半から101号法廷で、学者証人である中国社会科学院の張樹楓さんに対する尋問が行なわれます。また10月30日午後1時半から101号法廷で口頭弁論が開かれ、結審する予定です。

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