本書のタイトル「ロヒンギャ危機」とは、2017年8月25日以降のロヒンギャにかかわる諸問題全体を指す、著者による総称です(「はじがき」参照)。
同日の未明、東南アジアのミャンマーのラカイン州北部で、武装したロヒンギャの集団(アラカン・ロヒンギャ救世軍:ARSA)が国境警備警察と国軍の約30箇所の施設を同時多発的に襲撃しました。襲撃を受け、ミャンマー国軍はARSAに対する掃討作戦を開始。掃討作戦が中止された翌月後も、ラカイン州北部の村々が燃やされるなど破壊行為が展開され、数多くの一般市民が犠牲になりました。そしてこれを契機に約70万人という大量のロヒンギャ難民が、ラカイン州と接するバングラデシュへと流出しました。4カ月という短期間で生じた大規模な難民問題は、人道上の深刻な危機として受け止められています。他方、ミャンマー政府は、国軍の掃討作戦は国際法上のジェノサイドに該当し違法であるという国際社会の主張を否定し、事態はより複雑化しています。責任の所在が定まらないまま難民たちの置かれた状況は深刻を極めているのです。著者は、当該「ロヒンギャ危機」の実態や展望について限られた資料から考察し、現状を変えるためのアプローチが本書において模索されています。
本書は、まず「ロヒンギャ危機」を理解するうえで欠かせない基礎的な知識、すなわち、そもそも「ロヒンギャ」とはだれか、ミャンマーやラカイン州はどのような土地として位置づけられるかなどを整理します。それから、極めて複雑なミャンマーをめぐる政治的、文化的な歴史が紐解かれていきます。ここから「ロヒンギャ危機」に関連する地域や国が、日本を含む他国による侵略や植民地化の混乱の中で、徐々に分断状態に追い込まれていったことがわかります。ミャンマーがかつて軍事政権であったこと、そして民主化を果たした国であることは日本でもよく知られていますが、この国内的展開を図式的に捉えるにはあまりにも複雑な事情が交錯していることが明らかにされており、内在的な問題が形成されてゆく軌跡がみてとれます。
ARSAによる襲撃について、その内容や事件前後の詳細についても時系列的に分かりやすく整理されています。さらに、日本の報道でもその姿が度々映し出された、ミャンマー政府の指揮をとるアウンサンスーチーの「ロヒンギャ危機」における位置付けについても言及されています。スーチーは民主化、あるいは暴力的なものへの抵抗の象徴として世界的に知られた人物ですが、国軍のジェノサイド疑惑を否定し、国軍の行為や難民たちの置かれた状況を黙認しているとして、彼女への国際的な非難が高まっています。そもそもスーチーへのこうした評価が正しいのか、正しいとすればそれはどのような意味においてかについても考察がなされています。
最後に、難民たちの帰還やミャンマーの平和構築において、国際社会の一員である日本が果たせる役割が検討され、著者の見解が具体的に提示されている点も本書の特徴の一つです。
「ロヒンギャ危機」については十分な捜査や事実究明が行われておらず、肝心の犠牲者数ですら被害者の証言にもとづいた推計にとどまるというのが現状です(135頁)。単純な善悪の問題として還元できない「ロヒンギャ危機」は、このままでは国際的な関心も希薄になってしまいます。そのような困難な状況において、国連の報告書や既存の研究などを頼りに、少しでも実態を整理・把握し、平和的な問題解決へのアプローチを懸命に探る著者の力強い姿勢が印象的です。
日本国憲法前文は「…いずれの国家も、自国のことのみに専念して他国を無視してはなら」ず、国際社会における「名誉ある地位」を占めたいと謳っています。日本が「ラカイン州北部の人道・人権問題にもっと積極的に関わり、宗教間の融和や持続可能な平和構築に貢献できるはず」(228頁)だという著者の主張を、私たちは重く受け止めなければなりません。
付記…2021年2月1日、本稿の執筆中、ミャンマーで軍事クーデターが生じたというニュースに触れる。スーチー国家顧問をはじめ、大統領や閣僚らが身柄拘束されている。同国の今後の動向を注視したい。
はしがき
序章 難民危機の発生
第1章 国民の他者―ラカインのムスリムはなぜ無国籍になったのか
第2章 国家による排除―軍事政権下の弾圧と難民流出
第3章 民主化の罠―自由がもたらした宗教対立
第4章 襲撃と掃討作戦―いったい何が起きたのか
第5章 ジェノサイド疑惑の国際政治―ミャンマー包囲網の形成とその限界
終章 危機の行方、日本の役割
あとがき
【書籍情報】2021年1月、中公新書。著者は中西嘉宏。定価は880円+税。