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浦部法穂の憲法時評

 

個人の尊重


浦部法穂・法学館憲法研究所顧問
2010年1月21日

 1月17日は、阪神淡路大震災から15年目の日であった。そして、1月19日は、現行の日米安保条約が調印されてから50年目にあたる日となる。この2つの日を機に、憲法が最も重要な原理とする「個人の尊重」(憲法13条)ということの意味を、あらためて考えてみてはどうであろう。

 阪神淡路大震災から1年を経過した時点で、私は、次のように書いた(法学セミナー1996年4月号。なお、文中の数字はその時点でのものである)。

  《6308人。昨年1月17日の阪神・淡路大震災による犠牲者の数である。この数字の大きさに、あらためて震災の甚大さをみる人もいるだろう。しかし、問題は、数字ではない。数字が大きいから大変なのではないのである。(中略)。6308という数が重大なのではない。その一つ一つの死すべてが重大なのである。(中略)。
  すべて国民は、個人として尊重される。」憲法13条の一文である。ここに表された「個人の尊重」原理は、基本的人権の考え方の基礎をなす原理である。「個人の尊重」とは、哲学的・思想的にはいろいろ議論がありうるが、要するに、一人ひとりの人を大事にするということにほかならない。一人ひとりを大事にするという観点からいえば、犠牲になった人、被災した人を、数字でとらえることは、そもそも許されないはずである。私の憤りと困惑は、この点に根ざしていた。「個人の尊重」を基本的な立脚点とする憲法のもとで、にもかかわらず実はあたりまえのように人間を十把一からげでとらえていることへの憤りと、自分自身もそれまではそうであったことに思い至っての困惑である。「個人の尊重」を口で言うことは易しい。しかし、この国の社会は、決して、一人ひとりの人を大事にするという仕組みにはなっていなかったのである。この未曾有の震災は、そのことを白日の下にさらけ出した。それは、枚挙にいとまのないほど、いろいろなところで、いろいろな形で、あらわれている。》

 阪神淡路大震災の際の対応が、いかに「個人の尊重」つまり「一人ひとりを大事にする」という視点を欠いていたかの具体例は、上記法学セミナー誌上の論考にいくつもあげておいた。ここではそれを再掲するスペースの余裕はないので、法学セミナーのバックナンバーを見ていただくしかないが、そこで私が言いたかったことは、「一人ひとりを大事にする」という視点を欠いたままでは同じような災害を防げないだろう、ということであった。この時以後、私は、「一人ひとりを大事にする」という意味での「個人の尊重」を基底に据えた憲法論こそ必要だと確信し、意識的に「個人」の観点を徹底した憲法論を構築しようと努めてきたつもりである。

 「個人」の観点が最も欠落することになりがちなのが、軍事・安全保障に関わる議論である。1月19日付朝日新聞朝刊の日米安保50年の特集記事の中で、外交評論家の岡本行夫氏は、「あえていえば自衛隊員が10人死んでも、他のすべての国のように居続けられるか。日本はリスクをとれない特異な国だ」と述べている。これは、ひとり岡本氏だけの「特異な」議論ではない。戦争や軍隊の論理は、つねにそうである。犠牲が出るのはやむを得ない。10人・20人の犠牲ですむなら大成功だ。これが戦争や軍隊の「普通の」論理である。岡本氏の上記発言は、日本の場合には、かりに自衛隊を戦地に派遣して10人戦死者が出たら、世論は大騒ぎして撤退せよという議論が沸騰するだろう、それは「普通の」論理では考えられないことであり、その意味で日本は「特異な」国だ、という趣旨だと推測される。

 だが、これが本当に「普通の」論理なのであろうか。「自衛隊員10人の死」と軽く言うが、その10人も、一人ひとりがかけがえのない存在のはずである。ロボットが10体「死ぬ」のとは訳がちがう。戦争や軍隊にとっての「普通の」論理には、そういう発想がまったくない。人間を人間と思わない論理であって、それを「普通」と思う感覚こそが「特異な」ものというべきであろう。

 もっとも、私たちは、自分に直接関係しないところでは、いわば所詮他人事で、この「特異な」感覚を必ずしも「特異」とは思わない傾向がある。阪神淡路大震災のときに、私が、数が重大なのではなく一つ一つの死のすべてが重大なのだ、と感じることができたのは、私自身がこの震災のまっただ中に身を置いていたからであろう。その意味で、「個人の尊重」ということを本当に実現していくためには、当事者の立場に立って物事を考えていくことが重要だと思う。当事者でない者が当事者の立場に立つということは、そう簡単なことではない。自分はそのつもりでも当事者から見れば違っているということもあろう。だから、「個人の尊重」の実現が容易でないことは確かである。だからこそ、それをつねに意識し続けることが求められるのである。その意識をもたずに、多少の犠牲はやむを得ない、と切り捨てたら、その時点で確実に、犠牲は「多少」にとどまらないこととなろう。


 

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