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浦部法穂の憲法時評

 

時効廃止


浦部法穂・法学館憲法研究所顧問
2010年3月4日

 法務省の法制審議会は、2月24日の総会で、殺人罪などの公訴時効を廃止し、それ以外のものも現行の時効期間を2倍とすることなどを、法務大臣に答申した。過去の事件にも、時効成立前のものには遡って適用する、ともされている。犯罪被害者・遺族の声を反映したものであるが、他方、日弁連などの反対意見は斥けられた形となった。

 公訴時効については、2004年の法改正で、死刑にあたる罪はそれまでの15年を25年に、無期刑にあたる罪は10年を15年にするなど、延長されており、2005年1月1日以降に発生する犯罪について新たな公訴時効が適用されている。2004年の法改正も、犯罪被害者・遺族の思いに応えたものであったが、それからまだ5年余りしか経っていないのに、一定の罪については時効そのものを廃止し、他のものもその期間をさらに2倍にする、というわけである。また、2004年改正では、「罪刑法定主義」の一つの重要な内容である刑罰法規の不遡及原則にかんがみ、法施行後の犯罪から適用するとしていたのを、今回は、法施行前の犯罪にも遡って適用するというのである。本当にこれでいいのであろうか。

 たしかに、罪を犯しておきながら一定期間逃げ切れば「逃げ得」というのは納得できない、という感覚は理解できる。まして、被害者・遺族にしてみれば、その思いは切実であろう。犯罪被害者・遺族の立場からすれば(すべての被害者・遺族がそうだというわけではないにしても)、時効などという制度に合理性はないと考えるのも無理からぬところがある。そういう視点からみれば、今回の答申は大きな前進だという評価になるであろうし、新聞・テレビなどマス・メディアの論調も、ほぼすべて、そういうものであった。

 だが、はたして、これは「前進」なのであろうか。法制審議会刑事法部会に出された資料によると、これまで、時効完成後に犯人が判明した事件は、把握されているものとしては3件であり、時効完成後に、犯人が警察に出頭したとか、失踪宣告取消の申し立てを行った、あるいは自白した、ということで判明したものであって、いずれも、捜査の結果判明したというものではない。もし時効が廃止されれば、こうしたケースはなくなるであろうと予想されるから、何十年経っても真相は闇の中に置かれたままになる可能性が大きい。永遠に捜査を続ければ必ず犯人を捕らえることができる、などと考えるのは非現実的であり、いわゆる「お宮入り」となる事件をゼロにすることは不可能であろう。40年も50年も経ってから、何かのきっかけで犯人が判明し捕らえることができるというケースは、皆無とは言い切れないにしても、おそらくきわめて稀であろう。とすると、時効廃止の実際的な意味は、犯罪被害者・遺族の感情を満足させるという以上には、大きくないといえる。それとても、被害者・遺族のなかには、時効がなくなることによって心の一応の整理もできなくなり一生苦しみ続けなければならなくなる、という心情をもつ人もいるし、時効がなくなればかえって真相が明らかにされないままになる可能性もある、という点を考えれば、本当に被害者・遺族の感情を満足させることになるのかどうか、疑問の余地さえある。

 それよりも大きな問題は、国家の刑罰権の強化・肥大化であり、それに何の警戒心ももたずに積極的に支持さえする国民「世論」である。そもそも、憲法や人権というものは、国家権力に対する懐疑・警戒心のなかから生まれてきたものであり、なかでも、国家の刑罰権は最も暴力的な権力作用であるから、その抑制は、人権保障の最大の課題とされてきたものである。そのために、「罪刑法定主義」であるとか、「疑わしきは罰せず」、「無罪推定原則」などの刑事手続上の原則が確立されてきたのである。犯罪に対する「必罰主義」は、必ず、強引・過酷な取り調べやえん罪など、重大な人権侵害を引き起こすことにつながるのであり、そういうことが万一にも生じないようにすることこそが、刑事手続の目的とされているのである。刑事手続は、犯人を処罰するための手続というよりも、犯人でない人が犯人にされてしまうようなことが万一にも起こらないようにするための手続なのである。そのためには、真犯人とわかっても処罰できない場合が生じることもやむをえない、というのが、近代刑事法の基本的な考え方なのである。たとえば、憲法は、一度無罪とされた行為については刑事上の責任を問われない、と規定している(39条)。ある犯罪の容疑で起訴されたが証拠不十分で無罪になったという場合、後に有罪とするだけの新たな決定的証拠が見つかったとしても、再び裁判にかけられることはない、ということである。つまり、真犯人であるということがわかっても、罪に問えないのである。時効の場合に限らず、そういう「無罪」をも冷静に受け入れることが求められているのであり、このことを忘れた社会は、権力による暴力的支配にさらされるしかないこととなろう。

 犯罪被害者・遺族の気持ちは十分理解できるし、尊重されなければならない。しかし、国家の刑罰権という大きな権力の発動にかかわる問題を、被害者・遺族の「処罰感情」だけを前面にたてて云々するのは、危険でさえある。刑罰は、被害者・遺族に代わって「敵討ち」するためのものではないはずである。刑罰の目的は何なのか、そして、刑事手続の一番重要な目的は何なのかを、あらためて考えてみる必要があると思う。それらの点についての国民的議論がないままでの国家刑罰権の強化・肥大化は、人権侵害の危険を大きくするだけであり、また、被害者・遺族の人権保障という点からいっても、本当にそれに資するものとはなりえないと思われる。

 

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