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浦部法穂の憲法時評

 

検事の証拠改ざん


浦部法穂・法学館憲法研究所顧問
2010年10月7日

 大阪地検特捜部の主任検事が証拠を改ざんしていたことが明るみに出、証拠隠滅の容疑で逮捕された。押収したFDのファイルの日付を、検察側が描いた事件の筋書きに合うよう書き換えたというのである。そして、当時の特捜部長と副部長も、これを知りながら、故意にやったことではなく過失によって書き換えてしまったことにするよう指示し隠蔽をはかったとして、犯人隠避の容疑で逮捕された。まさに、刑事司法の根幹を揺るがす事態である。罪を逃れるための証拠隠滅はあっても、有罪に持ち込むための証拠隠滅など、およそ考えられない話である。ありえないこと、あってはならないことであるが、しかし、そういう、ありえないこと、あってはならないことが、現実にあったというところに、日本の刑事司法の構造的な問題が隠されているように思う。

 それは、日本の捜査当局に、あるいは裁判官に、そして国民感情にも、なお根強くある「必罰主義」的感覚であり、そうした感覚に支配された刑事手続の運用である。私は、今年3月の本欄で、時効廃止・延長問題に関連して、「必罰主義」は必ず、強引・過酷な取り調べやえん罪など、重大な人権侵害を引き起こすことにつながる、と述べたところであるが(2010年3月4日付け)、検事が自分の描いた事件の筋書きに合うように証拠を改ざんしたという今回の事件は、まさに、それが行き着くところまで行ってしまった、というべきものであろう。おそらく、当の主任検事は、自分の見立てがまちがっていたということになったら経歴に傷がつくから、それを恐れて改ざんという愚挙に出たのであろうと推測されるが、今回の事件を、そういう、自分の出世や保身しか考えないなどといった個人の資質の問題として片づけてはならない。あるいは、特捜部の体質の問題に帰するのも、根本的な問題解決につながるものではないであろう。問題の一番の根っこは、この国の社会にはびこっている「必罰主義」的感覚だと、私は思う。

 このように言うと、《悪いことをした者が処罰されるべきは当然なのだから、「必罰主義」がなぜ悪いのか》という反論が返ってきそうである。たしかに、悪いことをしても処罰されないということになったら、「犯罪天国」になってしまい、私たちは安心して暮らすことができなくなってしまう。だから、刑罰は必要である。しかし、「悪いことをした者を処罰する」にも、一定のルールが必要である。ルールなしに「処罰されるべきは当然」ということだけが言われれば、少しでも怪しい者は片っ端から捕まえて吐かせるとか、確証がつかめない難しい事件では「でっちあげ」てでも誰かを処罰するとか、ということになりかねず、そうなったら、また、私たちは安心して暮らすことができなくなってしまうであろう。そういうことにならないためのルールとして定められているのが、憲法上の刑事手続に関する諸原則なのである。そして、それは、長い歴史のなかで、現実に恣意的・暴力的な刑罰権に苦しめられてきた人々が闘いとってきたルールなのである。だから、「処罰されるべきは当然」と言う前に、まずはこのルールがきちんと守られるべきだという意識が先行しなければならない。ルールを守るということよりも「処罰されるべきは当然」が前面に出される「必罰主義」的感覚は、現実の刑事手続の運用を、憲法の定めよりも捜査側の都合や便宜に重きを置くものにしてしまっている。今回の事件は、それが極限的な形で表れたものというべきではないかと思う。

 さて、証拠改ざんをした主任検事が捜査にかかわっていたことで、影響があるのではないかといわれていた小沢一郎氏の政治資金規正法違反容疑事件について、検察審査会が2度目の審査で「起訴議決」をし、10月4日に公表した(議決日は「改ざん事件」が明るみに出る前の9月14日とのこと)。これで、小沢氏は「強制起訴」されることとなった。マスコミはこぞって「民意の反映」とか「法廷で黒白つけるのは当然」などとして、この議決を「歓迎」しているが、これにも私は危ういものを感じている。《検察の独断で無罪放免すべきではない。裁判できちんと有罪か無罪か判断すべきだ》というのは、一見正論のようにみえる。しかし、たとえば、1974年に兵庫県西宮市でおきた「甲山事件」で「犯人」として起訴された保育士の女性は、逮捕から無罪判決を獲得するまでに20年以上の歳月を費やし、その間、世間の非難と敵意にさらされてきたのであった(ちなみに、この事件は、当初検察が証拠不十分で不起訴としたのに対し検察審査会が「不起訴不当」の議決をしたため再捜査が行われ、起訴されたものであった)。「裁判で判断すべきだ」という「一見、正論」は、たとえ裁判で無罪が明らかになったとしても、場合によっては無実の人間の人生を無残に奪うことにもなるのである。この「一見、正論」にも、「必罰主義」的感覚が反映されていると思う。

 憲法の定めるルールの逸脱は決して許さないという意識をもつこと、その前提のもとではじめて「処罰されて当然」と言えるのだ、ということを、私たちは肝に銘ずる必要がある。この「改ざん事件」をきっかけに、ルールの逸脱を許さないために、とりあえずは取り調べの全面可視化を早急に実現すべきである。


 

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