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浦部法穂の憲法時評

 

新自由主義と高額年俸


浦部法穂・法学館憲法研究所顧問
2012年2月9日

 プロ野球日本ハムのダルビッシュ投手が、米大リーグのテキサス・レンジャーズに行くことになった。6年契約で年俸総額6000万ドルという。年1000万ドルは、1ドル=100円とすれば10億円、いまのレートで換算すれば約7億7000万円ということになるが、6年間毎年これだけの給料をもらって、いったい何に使うのか、私などにはとうてい想像もつかない。日本のプロ野球界でも、選手の年俸は年々上昇傾向にあり、昨年でいえば、推定年俸5億円のダルビッシュを筆頭に、年俸1億円以上のいわゆる「一億円プレーヤー」は80人を超えていた。一方で、同じプロ野球選手でも、年俸500万円程度という人もいる。実力の差といえばそれまでだが、ここにも「超格差社会」の現実がある。そのことに疑問を挟むことなく当然のこととして受け止めている人も多いと思うが、いったい、個人が1年間に受け取る金額として、何億円という額が必要なのであろうか。もちろん、プロ野球の一流選手ともなれば、才能とともに人一倍の努力をずっと続けてきているはずだから、その才能や努力は正当に評価されるべきである。また、プロ野球選手として活躍できる年限もそれほど長くないから、その点も考慮する必要はあろう。それでも、である。年俸数億を当然のようにいう当事者も社会も、私の感覚からすれば「ちょっと変」ではないかと思うのである。もっとも、アメリカならそれこそ一桁ちがう額になっているから、それと比較すれば日本のプロ野球選手の年俸はまだまだ高くないということになり、だから一流プレーヤーは皆大リーグに移籍して日本のプロ野球が衰退する、それを防ぐためにもっと年俸を上げてもいい、といった議論が出てくることにもなる。

 そういうたぐいの、「なんでもアメリカ基準」的議論が、日本をアメリカ的な「格差社会」にしてしまったのだと思う。冒頭にダルビッシュ投手の話題を取りあげたが、実際のところ、彼が何千万ドルもらおうと、そんなことは「ああだこうだ」という必要もないことである。プロ野球選手の年俸が高すぎるというのも、私の感覚からするとそう思うという程度のことであって、それを「けしからん」などというつもりは、私もない。プロ野球の話は「とっかかり」程度のものと考えていただいて、私がここで問題にしたいのは、プロ野球界ではなく、大企業の役員報酬である。東京商工リサーチによる上場企業「役員報酬1億円開示企業」の調査結果によると、昨年1月〜12月に財務局に有価証券報告書を提出した上場企業で、1億円以上の役員報酬を得ていたのは226社、364人だという。最高額は日産のカルロス・ゴーン会長兼社長の9億8200万円だそうで、ダルビッシュ投手の年俸よりも高い。報酬が高すぎるのではないかという声に対し、ゴーン氏は、欧米標準では決して高くない、と答えたという。たしかに、アメリカなどでは日本円に換算して何十億円という報酬を受け取っている企業経営者はゴロゴロいる。野球界と同じで、アメリカを基準にすれば、9億、10億も決して高くなく、優秀な経営者をスカウトするためにはアメリカ並みに役員報酬を上げるべきだ、という話になってくるのである。しかし、会社の業績が必ずしも思わしくないなかで、一方でリストラを進め、非正規社員を増やして人件費を削り、他方、何億もの報酬を受け取って当然という顔をしている経営者の感覚は、私にはとうてい理解できない。人としてのモラル・倫理観の「かけら」もみられない、とさえ思える。

 しかも、企業の役員報酬は、プロ野球選手の場合とはちがって、当の役員自身が自分で勝手に決められるのである。プロ野球選手の場合は、年俸を自分で勝手に決められるわけではない。会社(オーナー)からの提示と交渉のなかで決まるものである。これに対し、企業役員の場合は、報酬額を提示する会社そのものを自分が動かしているわけだから、実際には、自分で自分に対して報酬額を提示しているのと変わらないことになる。だから、どんな高額報酬であっても手前勝手に決めようと思えば決められるのである。もちろん、株主によるチェックはあるはずだが、株主総会が形骸化していることとともに(あるいは、それ以上に)、ストックオプション制度などの発達で経営者自身が株主でもあるという状況のなかでは、株主によるチェックは、もはや有効に機能しない。

 それでも、経営者が、従業員や社会全体に対する企業経営者としての責任を自覚し一定の倫理観をもって行動するならば、そうそう手前勝手な決め方はできないであろう。しかし、そういう経営者の責任感や倫理観は、もはやみられない。そして、そんな責任感や倫理観は不要だとしたのが、新自由主義の市場万能論だったのである。新自由主義は、要するにすべて市場に任せておけば何もかもうまくいく、という考え方であり、市場に参加する個人も企業も、公共の利益などを考える必要はなく、ひたすら自分の利益を追求すればよい、そうしてみんなが自分の利益を追求することで、結果として市場の調整能力が働き公共善が達成される、というのである。だから、企業経営者も、従業員や社会全体のことを考える必要はなく、ひたすら自分の利益を追求すればよい、ということで、手前勝手に高額な報酬を決めて何ら恥じることなくいられることになるのである。こうした新自由主義の考え方が、アメリカではレーガン政権によって、イギリスではサッチャー政権によって、そして日本では小泉政権によって、国家政策として推し進められ、自分の報酬を自分で勝手に決めることのできる連中が、自分の報酬はどんどんつり上げ、そのもとで働く人々の賃金はどんどん切り下げるということを、臆面もなくできるようにしていったのである。そういう社会だからこそ、東京電力の社長が「料金の値上げは権利だ」などと平然と言ってのけられたわけである。

 さて、自分の報酬を自分で勝手に決めることができるのは、企業経営者だけではない。国会議員など政治家もそうである。そして、いま、彼らは、国民に負担増を求める一方、公務員の給与を引き下げると言っている。が、自分たちの給料(議員歳費)やその他の給付(政調費など。政党交付金も同じ)の引き下げは、「国会議員にも生活がある」などといって拒否している。政治家もまた、ひたすら自分の利益だけを追求して何ら恥じることなくいるのである。新自由主義は、ここまで手前勝手を横行させているのであり、それが、いまの日本の(そして、おそらく先進国すべての)政治・経済その他あらゆる分野の「劣化」と「閉塞」をもたらしているといって過言ではない。だとすれば、私たちがいまなすべきことは、新自由主義との自覚的な決別であり、「競争が必要だ」、「民間を見習え」、「民間に委ねろ」などということばかりを言う人間に政治を委ねないという意思を、選挙における具体的な投票行動などをつうじて、はっきり見せることである。

 すべての人がどんな場合にも「健康で文化的な最低限度の生活」を営むことができるようにすること、これが政治の最も基本的な目的である。新自由主義は、その目的を達成できないばかりか、そこからどんどんどんどん遠ざかる結果をもたらした。そうである以上、それを政治の基礎に置くことは、もはや許されない。すべての人の「健康で文化的な最低限度の生活」の保障という原点に返って政治を組み立て直すことが、いま求められているのであり、それがまた、「日本再生」への道でもあると思う。




 

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