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浦部法穂の憲法時評

 

「何か変」な「市民感覚」


浦部法穂・法学館憲法研究所顧問
2012年3月8日

 2003年9月に奈良県大和郡山市で、警察官が車上荒らし(窃盗)の容疑で追跡中の乗用車に計8発を発砲し運転者に重傷を負わせ助手席の同乗者を死亡させるという事件があった。死亡した同乗者の遺族が、発砲した警察官らを特別公務員暴行陵虐致死等の罪で奈良地検に告訴したが検察官は警察官の行為を正当防衛にあたるとして不起訴としたため、遺族は奈良地裁に付審判の請求を申し立てた。これをうけて、奈良地裁は2010年4月に、弾丸を命中させた2名の警察官に関しては請求に理由があるとして審判に付する決定をした(起訴と同じ意味をもつ)。特別公務員暴行陵虐致死罪は裁判員裁判の対象であり、この事件は、付審判請求事件としてはじめての裁判員裁判として注目されていた(なお、付審判決定後、検察官役の指定弁護士から訴因変更が申し立てられ、殺人罪も訴因に加えられた)。その裁判員裁判の判決が2月28日に奈良地裁で言い渡された。結論は無罪であった。つまり、警察官の発砲は正当であり死に至らしめたこともやむをえないと一般市民も認めた、ということである。

 新聞などの記事を見るかぎり、パトカーに追いかけられ一般車も警察の車も体当たりで蹴散らして猛スピードで逃げる車に警察官が発砲した、というような、映画かドラマの一シーンのような光景を思い浮かべるが、この事件の事実を詳しく書いたものを読むと、どうも様相はかなりちがうようである。逃走車はすでに前後をパトカーで挟み打ちにされ、警察官たちはパトカーを降りてこの逃走車を取り囲んでいた、という状況のなかでの発砲だったという記述もある。そうだとすると、はたして発砲しなければならないような差し迫った状況にあったのかどうかさえ疑わしいことになる。私は、こちらが事実だと断定するつもりはないし、そもそも事実についての判断材料を持ち合わせていないので何が事実かを語る資格もない。しかし、新聞やテレビの報道だけで判断すると間違った判断にいたる危険性があるということは、いえると思う。

 裁判員は、もちろん、新聞やテレビの報道だけで判断しているわけではない。だから、無罪という判断には、それなりの理由があったのだろうと思う。そうは思いながらも、しかし、私は、この結論とそれに対する一般の受け止め方に、どうしても引っかかるものを感じざるをえない。それは、この国の国民の権力に対する警戒心があまりにも希薄ではないかという、常日頃から私が感じている危惧が、この結論とそれに対する一般の受け止め方にもあてはまるのではなかろうか、という思いである。いみじくも、この判決をうけて「警察が正義の味方と認められて心強い」という趣旨の県警幹部の談話が新聞に掲載されていたが、権力を正義の味方とみる「市民感覚」は、日本社会にかなり根深くはびこっている。この事件に関しても、付審判決定に対して「こんなことで警察官が罪に問われたのでは、犯罪天国になってしまい、安心して暮らせないではないか」といったたぐいの批判が、巷では横行していた。罪を犯したほうが悪いのだから、という論法だが、はたしてこの発砲事件の被害者はその場で射殺されなければならないほどの悪いことをしたのだろうか。まして、車上荒らしに関与したかどうかさえもはっきりしていないのに(逃走車の運転者のほうは窃盗などで実刑判決をうけて服役したが、車上荒らしは自分の単独犯行であり死亡した助手席の同乗者は一切関係がないと供述している)。

 権力は自分たちを守ってくれる正義の味方だ、と思う「市民感覚」は、良くいえば「善良」なのであろうが、しかし、あまりにも善良すぎる。「お人好し」といったほうがいい。しかし、権力は、ほんとうにそんなに信頼していいものなのだろうか。もしそうなら、憲法なんていうものは必要ないことになる。憲法は、もともと、権力に対する懐疑から生まれてきたものであり、放っておいたら権力は好き放題にするから、あらかじめ法的な枠をはめておく必要がある、という考え方を前提にしているものなのだから。逆に言えば、人々が、そういう権力に対する懐疑を持たず、権力を正義の味方と思い込んでいてくれることは、権力者にとってはきわめて好都合なことである。だから、権力を握っている者は、人々に権力は正義の味方だと思い込ませようと、あの手この手の策を講じてくるのである。それにまんまとのせられて権力を正義の味方と見なすような「市民感覚」は、「お人好し」という以外になく、「何か変」といわざるをえないのである。日本の政治における一貫した憲法軽視は、そういう「市民感覚」の反映ともいえるのではないだろうか。

 奈良警官発砲事件の無罪判決というところから話は飛躍しすぎたように受け止められるかもしれないが、この裁判員裁判で示された「市民感覚」が、もしも上に述べたような「何か変」な「市民感覚」と同類のものだったとしたら問題は小さくない。そうではなかったと信じたいが、裁判員裁判の意義そのものにかかわる問題として、きちっと検証される必要があると思う。




 

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