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浦部法穂の憲法時評

 

原発再稼働


浦部法穂・法学館憲法研究所顧問
2012年4月26日

 野田政権が原発再稼働に猛進している。4月6日に、電源喪失に備えた応急対策とストレステスト第一次評価が終わっていればあとの抜本的な安全対策は実施計画さえ示せば再稼働を認めるという「安全基準」を、まさしく「泥縄」で決め、関西電力大飯原発(福井県)について、4月13日の関係閣僚会議(首相、官房長官、経産相、原発事故担当相)で「安全性と必要性が確認できた」として、再稼働を認めることとした。翌14日には枝野経産相が福井県を訪れ、知事に再稼働への協力を要請した。藤村官房長官は、再稼働に地元の同意が法律上義務づけられているわけではないと、地元を切り捨ててでも再稼働すると言わんばかりの発言をしている。現在唯一稼働している原発は北海道電力の泊原発1基だけで、これも5月5日には定期点検のため運転停止になる。それまでに再稼働する原発がなければ、運転中の原発ゼロという状態になる。そういう事態を何とか避けたいというので政府は再稼働を急いでいるのだ、というようにも言われている。実際に5月5日までに大飯原発が再稼働できるかどうかは微妙だが、かりに「一瞬ゼロ」(枝野経産相)になることがあったとしても、文字どおり「一瞬」にとどめたい、ということなのだろう。

 なぜ「原発ゼロ」を避けようと躍起になるのだろうか。私の「憶測」では、もし「原発ゼロ」でこの夏の電力需要ピークを乗り切れてしまったら、原発なしでもやっていけることが「実証」されてしまい、すべての原発の再稼働がきわめて難しくなるからではないか、と思う。だから、「原発が動かなければ、この夏は確実に電力不足になる」と、たとえば関西電力管内では16%不足などといった具体的な数値をあげて、宣伝につとめているのだろう。民主党内で原発再稼働を強力に主張する「陰の仕掛け人」といわれている仙谷由人政調会長代行は、再稼働を否定するのは「集団自殺のようなものだ」とか「真っ暗闇の中で生活していくことはできないだろう」などと言っている。原発がなければ日本人は皆死んでしまうのか。原発がなければ電気はまったくつかないのか。極論もいいところである。そもそも、原発がなければほんとうに電力不足になるのかということ自体、昨年来の経験から疑問符がつく。夏・冬には毎日テレビで「電気予報」なるものが流されていたが、90%越えの「やや厳しい」という日が数日あっただけで、ほとんどは80数パーセントの「比較的余裕がある」という数値だった。そしてなにより、その「予報」があたっていたかどうかは、全然報道もされなかった。だから、「予報」自体の信憑性も疑われるのである。

 たった1年前に、あれだけの大きな事故を起こしたばかりである。しかも、その事故は、まだ現在進行中で、放射能汚染は続いており、原子炉のどこがどう壊れているのかもわからないし、なぜあのような事故が起きたかも全然解明されていない。だから、どのような対策をとればこのような事故の再発を防げるのかも、まだはっきりわかっていない。そして、なによりも、事故によって生活基盤を根こそぎ奪われた福島の人々は、いまだに住まいも仕事も定まらない「仮の生活」を強いられている。そんな状況の中で原発再稼働を口に出せるという神経がわからない。かりに電力不足の予想が本当だとしよう。それでも、「だから原発再稼働」と言うのは、やはりまともな神経ではないと思う。電力不足が確実だというのだったら、そこで言うべきことは「原発再稼働」ではなく、「電気の使用抑制」ではないのか。「節電」にも限度があるから原発なしに「節電」だけで電力不足を乗り切ることはできない、という言葉もよく聞かされているが、これもおかしな論理である。少なくともいまの状況のもとでは、「原発なし」は大前提に置くべきで、それで供給できる電力の範囲内でピークを乗り切る方策を考える、というのが筋ではないのか。

 「のど元過ぎれば…」という言葉があるが、福島の事故は、まだ「のど元」も過ぎていない。それなのに政権が「原発再稼働」へ突っ走り、経済界もそれを強く要請し、「読売」や「産経」といった大新聞が「早く再稼働せよ」という主張を臆面もなく社説で展開する。これは、異常であり、異様な姿である。なぜなら、そこには「一人ひとりの人間を大事にする」という発想が微塵もないからである。そこにあるのは、経済活動への障害は何としても避けなければならない、という発想だけであり、万一同じような事故が起きたらそれは仕方がない、と考えているようにしか思えない。要するに、「原発再稼働」を唱える連中は、同じような事故が起きて再び何千人・何万人かの人の健康と生活が破壊されるようなことがあるとしても、それよりいまの経済活動を阻害しないことのほうが重要だ、と言っているわけである。枝野経産相は「再稼働で、もし事故が起きたら政治が責任を負う」と言うが、どう責任を負うつもりなのだろうか。大臣辞任や政界引退で原発事故の責任が負えるとでも思っているとしたら、とんでもない話である。もし事故が起きたら自分が真っ先に原子炉建屋の中でもどこでも入って放射線が外に漏れ出さないようにする、とでもいうのだったら、まだしも(それでも完全に「責任を負った」ことにはならないだろうが)、その覚悟もないのに「責任を負う」などと軽々に言うべきではないし、そもそもそんなことはできっこないのだから、「再稼働」を決定すること自体がまちがっている。

 ちょうど1年前に、私はこの欄で、「復興に向けての原理原則」というタイトルの一文を書いた(2011年4月21日付)。そこで述べたように、日本国憲法のいちばん基底にあるのは「個人の尊重」原理(憲法13条)であり、震災復興に向けていちばん根底に置かれるべき原理原則も、当然、「個人の尊重」ということでなければならない。しかし、大震災と原発事故の被災者・被害者の生活再建のための迅速・有効な施策を打ち出せないままで「原発再稼働」に突っ走る政府には、そんな意識はまったくないようである。




 

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