法学館憲法研究所は、憲法を系統的に研究し、個人の尊厳の実現をめざす非政府組織としての自由な研究機関です

法学館憲法研究所

Mail info@jicl.jp
 
今週の一言
憲法情報Now
 憲法をめぐる動向
 イベント情報
 憲法関連裁判情報
 シネマ・DE・憲法
 憲法関連書籍・論文
 ■今日は何の日?
憲法Voice
研究所・客員研究員紹介
中高生のための憲法教室

憲法文献データベース
日本国憲法全文
リンク集
 
事務局よりお知らせ
賛助会員案内
メールマガジン
ご意見フォーム
サイトマップ

浦部法穂の憲法時評

 

「競争」と「相互扶助」


浦部法穂・法学館憲法研究所顧問
2012年5月10日

 今年の「ゴールデンウィーク」が始まったばかりの4月29日朝、関越自動車道で、金沢から東京ディズニーランドへ向かっていた夜行の高速ツアーバスが道路左側の防音壁に激突し、乗客7人が死亡、39人が重軽傷を負うという惨事が発生した。事故の直接の原因は運転手の居眠りだったということだが、500q以上を走行する夜行バスで運転手が一人しか乗務していなかったなど、安い料金を競ってのコスト削減競争がその背景にあることはまちがいないだろう。この種のツアーバスは、2000年以降の規制緩和で参入が容易になり、事業者が増え続けた。バス会社は過当競争で、削れるところはとことん削って低料金を競い合っている。そんな中での今回の事故であった。

 ここ十数年来、日本社会は「競争こそが善」という、「なんでも競争」の「市場万能主義」に染め上げられてきた。規制緩和は、その1つの表現である。経済活動に対する規制をなくしたり緩めたりすることで「自由」を拡大し、市場における競争を促進する、というわけである。経済だけではない。私が長年籍を置いてきた大学も、2004年の国立大学「法人化」によって、国から支給される「運営費交付金」は年々削られ、科学研究費などのいわゆる「競争的資金」を獲得できなければ研究費は保証されないなど、大学自体も研究者個人も、「競争」に駆り立てられることとなった。義務教育でさえ、学校選択制などという形で、学校間の競争があおられている。役所のやり方への批判は、決まって、「民間ならこんなことは通用しない」、「民間ならたちまち倒産だ」等々、「民間こそが模範だ」式の言いぐさで埋め尽くされる。「競争原理」が働かないから役所はおかしなことばかりするのだ、「競争」にさらされている民間を見習え、というわけである。私なんかは、民間のやり方がそんなに模範的なら、もっともっと暮らしやすい社会になっているはずだと思ってしまうのだが……。

 それはともかく、こういうように、「なんでも競争」、「競争こそが善」という考え方が世の中を席巻しているのは、私たちが知らず知らずのうちに「新自由主義」に洗脳されてしまっているからであろう。ハイエク、フリードマンに代表される現代の「新自由主義」とは、私的所有権、自由市場、自由貿易という制度的枠組みの中で個々人の経済活動の自由とその能力とが無制約に発揮されることによって人類の富と福利が最も増大する、と主張する理論であり、要するに、「市場における自由な競争」にすべて委ねておけば何もかもうまくいく、という考え方である。この考え方が、世界的には1970年代以降、それまでの福祉国家政策やケインズ的有効需要政策が行き詰まりをみせるなかで、1980年をはさんで、イギリスのサッチャー政権、アメリカのレーガン政権などによって国家政策として推し進められた(日本の場合には、少し遅れて2001年の小泉政権以後、本格的な「新自由主義」的政策が展開される)。以後、この考え方が、日本だけでなく世界の「公認思想」のごとく、国家の政策をつうじて吹き込まれ、人々を洗脳していったのである。

 「競争」は、たしかに一面では必要なものである。競争がなければ現状に満足してしまって向上心は生まれてこないかもしれない。その意味で、競争が活力を生むという側面はあるだろう。また、競争のない独占・寡占状態では、供給側が商品やサービスの質を落としたり価格を不当に高く設定したりしても、消費者はその商品やサービスを必要とするかぎり買わざるを得ないから、消費者の権利を守るという観点からも、競争は必要だといえる。しかし、だからといって「競争がすべて」ではない。なんでも「競争」に委ねればいい結果がもたらされるというわけではない。「競争こそが善」であって自由な競争を制限する規制はすべて「悪」だ、というわけでもないのである。私たちは、消費者という立場から、ともすれば「安ければ安いほどいい」と考えがちである。だから、規制緩和で多くの事業者が参入し競争が激しくなって価格が下がることは、歓迎すべきことと受け止めるだろう。しかし、値段が安いということは、その分どこかでコストを削っているはずである。冒頭のバス事故の場合、運転手1人で夜間500q以上を走らせていたし、その運転手もバス会社の正規の従業員ではなく「日雇い」運転手であったという。そういう形で人件費を削れるだけ削り、低価格を実現していたのである。運転手の状態は、バスの安全に直接かかわる。だから、ここでは安全のコストが極限まで切り詰められていた、ということになる。安全と引き替えでも「安ければ安いほどいい」のであろうか。

 また、多くの人は、消費者であると同時に労働者でもあるだろう。そして、労働者という立場で考えてみれば、「安ければ安いほどいい」とは決して言えないはずだと思う。安ければ安いほど、その商品やサービスを生み出す労働者の受け取る賃金が安くなる(もしくは人減らしで「くび」になるか、生き残っても長時間労働など過酷な労働条件を強いられる)のは必然だからである。そういう意味でも、「なんでも競争」がいいわけではないのである。そういう「当然の理」が洗脳によって忘れ去られてしまっている。「自由」という、それ自体は肯定的な意味をもち心地よく響く言葉のせいであろうか。

 歴史をさかのぼってみれば、「競争」への全面的信仰は、おそらく、19世紀半ば、ダーウィンの生物進化論に行きつくであろう。ダーウィンが生物進化の論拠とした「生存競争」と「適者生存」という観念は、当時急速に富を蓄えてきた産業資本の「強欲」を正当化するために用いられた。生物界のみならず社会もまた「適者生存」の法則によって進化し進歩するのであり、社会の中での自由な「生存競争」に任せておけば生き残るにふさわしいものだけが生き残り、そのことによって社会は進歩・発展するのだ、というわけである。こうして、たとえばカーネギーとかロックフェラーといった当時のアメリカの財閥は、自分たちの成功は自分たちがこの社会の中で生き残るにふさわしい存在であることの証明だ、と胸を張ったのであった。いまの「新自由主義」の言っていることは、これと大差ないような気もするが、とするといったいどこが「新」なのだろうか。

 しかし、こうしたダーウィンの理解と援用に対しては、当時(19世紀末)すでに全面的な批判がなされていた。それがクロポトキンの「相互扶助論」である。私はかなり昔に読んだものだが、要するに、動物界においては「生存競争」よりも本能的な「相互扶助」が種の生き残りと進化に重要な意味をもっているのであり、人類についても「相互扶助」の本能が社会の根幹をなしている、というのである。それは、観念的に述べられているものではなく、クロポトキン自身があちこちで種々観察した事実として述べられているものである。実際、たとえば大震災に際して日本国内のみならず世界中から救援・支援の手がさしのべられた事実は、まさに人間の「相互扶助」のあらわれといえるのではないか。それは、「愛」とか「同情」というよりも、もっと奥深いところから発するもののように思われる。クロポトキンが「相互扶助」を「本能」だと言ったことがわかるような気がする。この「本能」をお金への執着から忘れてしまった結果が、「なんでも競争」の市場原理主義に毒されたいまの状況ではなかろうか。クロポトキンといえばアナーキストである。アナーキスト、アナーキズムは危険だというレッテルのために、この「相互扶助論」が顧みられないでいるのは、残念である。




 

[今週の一言][憲法情報Now][中高生のための憲法教室][憲法文献データベース][事務局からのお知らせ]
[トップページ]