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浦部法穂の憲法時評

 

沖縄「復帰」40年


浦部法穂・法学館憲法研究所顧問
2012年5月24日

 5月15日、沖縄は「復帰」40年を迎えた。1972年5月15日、沖縄の「施政権」がアメリカから日本に「返還」され、沖縄は新生沖縄県として日本に「復帰」した。その日、「復帰」を記念する式典が東京と那覇市で行われたが、東京の式典で佐藤栄作首相(当時)が満面の笑みで万歳三唱をしたのに対し、那覇市の式典では屋良朝苗知事(当時)は、沖縄の人々の願望が受け入れられないままでの「復帰」であることを、苦渋に満ちた表情で述べざるをえなかった。そして、那覇市の与儀公園では1万人が参加した復帰抗議県民総決起集会が開かれた。核も基地もない「即時・無条件、全面返還」が沖縄の人々の願いであり、当時の琉球政府(屋良主席)はその旨をまとめた「復帰に関する建議書」を日本の国会に提出しようとしたが、建議書提出のその日に、衆議院特別委員会は沖縄返還協定を強行採決し、沖縄の人々の願いは聞き入れられることなく、国会承認されてしまったのであった。

 それから40年、「基地のない平和な島」という沖縄の人々の願いは、アメリカ政府にも日本政府にも、まったく聞き入れられないままに過ぎた。それどころか、1972年当時と比べると、米軍基地面積は本土では約60%減少したが(19,699ヘクタール→8,086ヘクタール)沖縄は18%の減少にとどまっており(27,892ヘクタール→22,807ヘクタール)、基地負担を沖縄だけに押しつける構造は、いっそう深まっている(数字は5月15日付「沖縄タイムス」の記事による)。普天間飛行場の移設問題でも、県外・国外移設を願う沖縄県民の声は、まったく顧みられない。そして、普天間移設の目処が全然立たないなかで、普天間飛行場への「オスプレイ」(垂直離着陸輸送機MV22)配備が決められた。今年7月下旬にも普天間飛行場に搬入し試験飛行を実施する方向だという。「オスプレイ」は要するに飛行機とヘリコプターの「利点」をあわせ備えた航空機で、事故の危険も高く(現に、これまで何回も墜落事故を起こしている)騒音も凄まじい。「負担軽減」どころか、新たな「負担」の押しつけである。こうした「復帰」40年の現実を沖縄に対する差別だととらえる沖縄県民が急速に増えているという。今年5月15日の「沖縄タイムス」の社説は「この40年を通して本土と沖縄の心理的な距離は、今が一番開いているのではないだろうか」と述べる。単に40年の節目だからというのでなく、そういう状況であればこそ、日本にとっての、あるいは日本人にとっての「沖縄」とは何なのかを、いま、問い返してみる必要が大きいと思う。以下では、そのための一つの素材として、教科書的記述の範囲にとどまるが、沖縄の歴史をふり返ってみる。

 沖縄は、1872年に始まる「琉球処分」(1879年「沖縄県」設置に至る、明治政府による一連の措置)までは、「琉球王国」という、日本とは別の国であった。琉球王国は1406年に尚氏によって樹立されたとされ、中国(当時は明朝)の冊封体制(冊封=中国皇帝から国王として承認を受けること)に組み込まれていた。優良な中国商品を大量に入手できたため、それらの商品を用いて日本や朝鮮などを相手に中継貿易を行い発展していった。しかし、16世紀になって、スペインやポルトガル等のアジア進出によって琉球の交易活動は急速に衰退した。それに乗じる形で、琉球をつうじて明と貿易することを望んだ薩摩の島津氏が、琉球に対する圧力を強めていった。また、豊臣秀吉は、朝鮮侵攻に際し、薩摩を通して琉球にも軍役を要求、琉球は、明との関係悪化を恐れたが、他方、拒否すれば薩摩に攻撃される危険があるということで、軍役の要求を受け入れた。その後、秀吉没後に実権を握った徳川家康は、朝鮮出兵によって険悪になった対中関係を修復するため、琉球に対し幕府のために明との仲介をするよう、島津氏をつうじて要求したが、琉球はこれに応じなかった。業を煮やした島津氏は武力によって琉球を従わせようとし、1609年3月、琉球に攻め入った。琉球は抵抗するすべもなく敗れ、島津氏(およびその背後の徳川幕府)の支配に服することとなった。以後、琉球王国は、明(のちには、清)の冊封体制に組み込まれながら同時に薩摩及び徳川幕府に服属するという地位に置かれたのであった。

 いわゆる明治維新によって成立した新政府(明治政府)は、1871年に全国で廃藩置県を実施し、1872年には琉球王国を廃して「琉球藩」とし王は「琉球藩王」とすることを一方的に決定した。これが、いわゆる「琉球処分」の始まりである。この措置に、清は反発し、琉球は古来中華帝国に服属していたとして、琉球の領有権を主張した。明治政府は、ちょうどその頃起きた宮古島船の台湾遭難事件で乗組員が台湾の住民に殺害されたことへの報復を名目に、1874年に台湾へ出兵し、イギリスの調停による清との和解文書で、琉球人が日本人であることを清に認めさせた。そして、1879年、琉球に清との関係を完全に絶たせるため、明治政府は琉球に軍を送り、琉球藩を廃して「沖縄県」とすることを通達、「藩王」は東京に住むことを命ぜられ、ここに琉球王国は完全に消滅した。清は依然としてこれを認めなかったが、1894〜95年の日清戦争で日本が勝利し、台湾が割譲されて日本の植民地となったことで、琉球についても、清は暗黙に日本への帰属を認める形となった。その後、沖縄では、宗教施設の神道的再編や徴兵制の適用、「標準語」励行運動など、「皇民化」政策が着々と進められていった。

 アジア・太平洋戦争が始まった頃から、沖縄は本土防衛のための最前線基地という位置づけが強められた。そして、1945年3月26日、ついに米軍が慶良間諸島に上陸、4月1日には沖縄本島の読谷村に無血上陸し、凄惨な地上戦が始まった。日本軍が何の抵抗もせずに米軍の上陸を許したのは、兵力不足のなか、持久戦に持ち込み、本土への米軍侵攻を遅らせるねらいがあった、ともいわれている。沖縄では、米軍の攻撃による死者のほか、日本兵に虐殺されたり集団自決に追い込まれたりして亡くなった住民も少なくなかった。沖縄戦での日本側の死者は約188,000人、そのうち94,000人が民間人だとされている。米軍は、沖縄上陸と同時に、日本帝国政府の行政権をすべて停止し南西諸島を米国海軍軍政府の管轄下に置くことを宣言した。以後、沖縄は、ポツダム宣言受諾による日本降伏後も含めて、米国軍政府の支配下に置かれることとなるのである(1950年12月に「軍政府」は「民政府」となる)。そして、米ソ対立の激化と朝鮮戦争の勃発で、沖縄はアメリカにとっての「東アジアの要石」とされ、米軍は「銃剣とブルドーザー」で住民の土地を接収し、基地建設を急ピッチで進めた。

 1952年4月28日に発効したサンフランシスコ講和条約によってアメリカによる占領は終わり、日本は独立を回復した。しかし、この条約の第3条は、沖縄を含む南西諸島等について、「合衆国は、領水を含むこれらの諸島の領域及び住民に対して、行政、立法及び司法上の権力の全部及び一部を行使する権利を有するものとする」とし、沖縄に対するアメリカの支配権を従前どおり維持するものとした。沖縄を切り捨てての「講和」であり日本「独立」だったのである。そして、同時に締結された日米安保条約によって、日本はアメリカに対し、日本国内のどこでも、基地を提供する義務を負うこととなった。1972年の沖縄「復帰」後は、「復帰」前の沖縄米軍基地をほぼそのまま提供することで、この義務の大半を果たしている、というわけである。

 以上、ざっと概観しただけだが、この歴史から私たちは何を読み取るべきだろうか。侵略と強制併合、そして植民地支配という歴史が、たしかにここにもあった。40年前の「復帰」は、この歴史に向き合わないままでの「復帰」だった。そしてその後の40年も、また同じであった。私はそう感じるが、どうであろう。




 

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