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浦部法穂の憲法時評

 

「憲法の言葉」シリーズ


浦部法穂・法学館憲法研究所顧問
2012年8月9日

 2009年4月から始めたこの「憲法時評」も、今回で80回目になる。政治や社会のその時々の問題を憲法の視点から考えてみるというコンセプトで、いろいろな問題について論評してきたが、ふり返ってみると、どうも、腹立たしい思いで書いたものや重い気持ちになるようなもののほうが多く、あまり楽しい話は書いてこなかったように思う。時事評論というものの性質上、当然といえば当然のことではあるし、私には「楽しい話」が書けるような文才はないから、これも仕方のないことであろう。実際、いまも、原発やオスプレイや消費税や、その他もろもろ腹立たしいことが、それこそ「オンパレード」であるから、今回もそういう問題を取りあげようかとも考えた。しかし、2週間ごとに腹を立てるのも、結構しんどいことであり、体にもよくない。そこで、これからは、「楽しい話」は無理だが、随時、時事的な問題とは直接関係しない話をはさみながら、この「憲法時評」を続けていきたいと思う。

 さしあたりは、「『憲法の言葉』シリーズ」として、憲法の規定や憲法論で用いられる「言葉」の意味を考えるシリーズものを、時折はさんでいきたい。憲法に限らず、法律の規定はすべて「言葉」によってあらわされている。しかも、それは、抽象的な概念をあらわす言葉である場合がほとんどである。だから、その「言葉」をどう解釈するかによって、法律の規定の意味も違ってくる。とはいっても、「言葉」はそれ自体一定の意味を与えられているから、その範囲を超えてどうとでも解釈できる、というものではない。その言葉がもっている意味の「枠」と言ってもいいかもしれないが、その「枠」を超えた解釈はできない、ということである。そして、その「枠」を決定づけるのが言葉の「ニュアンス」だと思う。似たような言葉であっても、言葉が違えばその微妙な「ニュアンス」の違いによって、人々の受け止め方は違ってくる。たとえば、「公共の福祉」と「公の利益」は、しばしば(とくに判例では)同義のものとして語られる傾向にあるが、しかし、「ニュアンス」は微妙に違う。「人権は『公共の福祉』のために制限される」というのと、「人権は『公の利益』のために制限される」というのは、まったく同じだととらえられるだろうか。後者のほうが、より強権的な感じがするのではなかろうか。「公共」とか「公」という言葉に関しては、いずれあらためて書きたいと思うが、要するに、言葉の言いかえがその「ニュアンス」の違いによって微妙な意味の「ずれ」をもたらす、ということである。

 ところで、憲法も含めて、法律上の概念はほとんど西欧からの「輸入品」である。つまり、西欧の言葉(ドイツ語やフランス語や英語、初期にはオランダ語など)を日本語に翻訳したものである。翻訳という作業は言葉の言いかえであるから、そこには微妙な意味の「ずれ」が生じうる。つまり、西欧の言葉で表現される法律上の概念が日本語に翻訳されたときに、西欧語のその言葉と日本語のその言葉の「ニュアンス」の違いによって、意味がすり替わり、同じ法律上の概念を使っているつもりでも実は微妙に違った意味あいで理解されている、という場合が少なくないと思われるのである。あるいは、日本語への翻訳が当該西欧語の言葉の本来の意味に照らして必ずしも適切ではないというような場合には、人々がその法律概念を誤って認識したり、場合によってはさっぱり理解できなかったり、ということにもなる。

 さっぱり理解できない法律用語の代表格は、たぶん、刑法で議論されている「行為無価値」とか「結果無価値」という言葉ではないかと思う。法律を専門的に勉強した人以外でこの言葉の意味がわかる人は、おそらく皆無ではなかろうか。もっとも、これは、刑法の条文にある言葉ではなく、刑法学者たちがああだこうだと議論しているなかで使われている言葉だから、一般の人がこの言葉を知らなくても、また、さっぱり理解できなかったとしても、あまり実害はないかもしれない(ただ、裁判員制度のもとでは、そうとも言っていられない場合が出てくるかもしれない)。「行為無価値」か「結果無価値」かというのはどういう議論かというと、刑罰は違法な行為に対して科されることになるが、悪い行為をしたことが違法だと考えるか、それとも悪い結果を発生させたことを違法だと考えるか、という議論だと考えておけばよいだろう。つまり、たとえば、「人を殺す」という悪い行為をしたことが違法だと考えるのが「行為無価値」論、「人を死なせる」という悪い結果を発生させたこと自体を違法と考えるのが「結果無価値」論、ということになるが、ここではこの問題を論ずることが主題ではないので、これ以上立ち入らない。

 法律学の世界で、なぜこういうわけのわからない言葉が使われるのか。それが、先ほど言った翻訳の問題である。「行為無価値」、「結果無価値」というのは、ドイツ語のHandlungsunwertとErfolgsunwertの訳語であり、昔の誰か偉い先生がunwertを「無価値」と訳したためにわけのわからない訳語になり、誰もおかしいと言えないままに学界で定着したのだと思うが、はっきり言ってこれは誤訳に近い。ここでのunwertは、「無価値」というよりも「あってはならない」というくらいの意味であろう。こういうように、法律用語の多くが翻訳語であるということのために、場合によっては誤訳に近いような意味不明の言葉が使われたり、誤訳とはいえないまでも必ずしも適切でない訳語があてられるといったケースは少なくない。そして、そのことのために、日本では、法律上の概念が、その西欧語のもともとの意味とは違う形で理解される、といったことも生じている。このシリーズ(といっても、まったく不定期になると思うが)では、憲法の分野でのそういった事例をいくつか取りあげてみたいと考えている。

 もうだいぶ昔になるが、ハリソン・フォード主演のアメリカ映画で「いま、そこにある危機」という日本語タイトルのものがあった。この映画の英語の原題は、"Cleare and present danger"である。憲法を学んだことのある人ならおなじみの言葉であろう。憲法学の領域では「明白かつ現在の危険」と訳されている言葉である。憲法学では、「『明白かつ現在の危険』がある場合でなければ表現の自由を制約することは許されない」と言われるが、「『いま、そこにある危機』が認められなければ表現の自由を制約することは許されない」と言ったほうが、表現の自由に対する制約の厳格性を表すのに、より適しているようにも思うがどうであろう。それとともに、西欧語のもともとの法律用語は、そのまま映画のタイトルにもなるようなごく日常的な言葉なのだということも、あらためて認識させられよう。法律論がごく日常的な言葉で語られる所と一般の人にはなじみの薄い難しげな言葉で語られる所、これも彼方此方の法文化の違いにかなりの程度影響を与えているのではないかと思う。




 

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