法学館憲法研究所は、憲法を系統的に研究し、個人の尊厳の実現をめざす非政府組織としての自由な研究機関です

法学館憲法研究所

Mail info@jicl.jp
 
今週の一言
憲法情報Now
 憲法をめぐる動向
 イベント情報
 憲法関連裁判情報
 シネマ・DE・憲法
 憲法関連書籍・論文
 ■今日は何の日?
憲法Voice
研究所・客員研究員紹介
中高生のための憲法教室

憲法文献データベース
日本国憲法全文
リンク集
 
事務局よりお知らせ
賛助会員案内
メールマガジン
ご意見フォーム
サイトマップ

浦部法穂の憲法時評

 

「憲法の言葉」シリーズB 人権


浦部法穂・法学館憲法研究所顧問
2013年9月5日

 「憲法の言葉」シリーズの3回目として、今回は、「人権」という言葉について考えてみる。これについては、すでに私はいろいろなところで同じことを書いているが、「『憲法の言葉』シリーズ」と銘打って「人権」を外すわけにはいかないということで、二番煎じ・三番煎じになることには目をつむることにした。「もう何回も同じことを読んだ、聞いた」という人には申し訳ないが、ご容赦願いたい。

 さて、「人権」が重要であり尊重しなければならないということは、少なくともたてまえとしては、誰も否定しないであろう。しかし、他方で、「人権」というと、なにか、「堅苦しい」、「難しい」と感じ、あるいは身構えてしまう、といった人も少なくないと思う。そして、「人権とか権利という前に、きちんと義務を果たすべきだ」とか、「権利には義務が伴う」とかといったような、権利よりも義務を重視する言い方が、一定程度の説得力をもって受け入れられているようでもある。そういう受け止め方がなされている要因の、少なくとも一つは、日本語の「人権」という言葉にありそうである。

 日本語の「人権」とか「権利」という言葉は、昔からあった言葉ではなく、幕末から明治の初期に、西欧の考え方が日本に入ってきたときに、西欧的な概念の翻訳語として造られた言葉である。「人権」は、英語でいうと"Human Rights"である。つまり、「Human=人」の「Right=権利」という意味で「人権」といわれるわけであるが、問題は、英語でいえば"Right"という言葉に「権利」という訳語を当てたことにある。英語の"right"のそもそもの意味は、「正しい」という意味である。そこから派生して、この言葉が日本語でいう「権利」の意味に用いられるようになったのである。したがって、英語的感覚でいえば、「権利」(Right)という言葉には「正しい」(right)という意味が含まれているわけである。というよりも、「権利」と「正しい」ということは、同じ言葉で表されるように、そもそもは同じ意味なのである。"Right"は"right"だから"Right"なのである。したがって、"Human Rights"のそもそもの意味は、「人間として正しいこと」という意味になる。このことは、英語だけでなく、そのほかの西欧系言語でもほぼ同じである。

 ところが、日本語の「権利」という言葉には、「正しい」という意味は含まれていない。むしろそれは、自分の利益を押し通す、といったニュアンスをもっている。また、同じ「権」という語が、「権力」という意味でも用いられるので、「権利」はしばしば、「権力」と同様に、相手を問答無用に黙らせる道具として使われることにさえなる。そのために、人々は、「権利」とか「人権」というものに対して、堅苦しさを感じたり、あるいは身構えてしまうことになるのではないかと思うのである。そういうところから、「権利ばかりを主張するのはいかがなものか」といったことが言われたりもするわけであるが、しかし、そこで「権利」を"right"(=正しい)という語に置き換えてみれば、「Right(正しいこと)ばかりを主張する」ことが悪いはずはないから、「権利ばかりを主張するのは・・・」と言うのは「たまには正しくないことも主張すべきだ」と言っているようなもので、そのおかしさが明白になる。

 したがって、私たちが「人権」というものを語るときには、日本語の「人権」という言葉を前提にするのでなく、そのもともとの言葉である"Human Rights"つまり「人間として正しいこと」と言い換えて、そこから考えることが必要である。要するに、「人権」の主張は、「人間として正しいことだ」という主張でなければならないし、逆に「人間として正しくないこと」が「人権」侵害なのだ、という意識をつねに頭に置いて「人権」というものを語る必要がある、ということである。

 もちろん、なにが「人間として正しいこと」なのか、あるいは、ある特定の具体的な行為が「人間として正しくないこと」なのかどうか、については、意見の相違は当然ありうる。したがって、そこで重要なのは、絶対的な正・不正というよりも、「正しさ」についての社会的コンセンサスの形成である。「人間として正しいこと」なのかどうかについて、各人それぞれの多様な考え方が自由に表明され意見をたたかわせることによって、「正しさ」についての社会的なコンセンサス(多数決ではない!)が形成されてはじめて、「人権」というものが社会的に定着することになるのである。

 とはいえ、「正しさ」についての判断基準がまったくの白紙では、コンセンサスを得ることは不可能である。「人権」="Human Rights"という考え方は、すべての人が人間として当然にもっている権利を尊重するというものであり、その「正しさ」の判断基準のいちばん根底に、「個人の尊重」ということを置くものである。そのことは、日本国憲法でも、「すべて国民は、個人として尊重される」(13条)として確認されている。「個人の尊重」とは、要するに、一人ひとりの人間を大事にする、ということであり、一人ひとりの人がそれぞれにもっている価値を等しく尊重し、自立した人格として認めあう、ということである。その観点から「人間として正しいこと」なのかどうかを考えていくこと、それが「人権」を考えることであり、そういう「正しさ」の感覚を磨いていくことが「人権感覚」を身につけるということなのだと、私は思うのである。

 福島第一原発の汚染水漏れは、諸外国のメディアで大きく取りあげられ東電や政府の対応への批判が高まっているが、日本の国会は、オリンピック招致に悪影響が及ぶことを懸念して審議を先送りした。その一方、日本政府は、今月になって、東電任せにせず数百億円の公費を投入して国が主導して対策にあたることを決めたが、もっと早くに抜本的な対策を講じるべきだったのにいまになってなぜ(しかも、抜本的とはとうてい言い難い、有効性も不確かなものを)、というのも、9月7日のオリンピック開催地決定に向けての「点数稼ぎ」の意味があるという。原発事故・放射能汚染の問題よりもオリンピックのほうが大事だといわんばかりの政治は、「個人の尊重」とはまったく無縁のものである。そんな政府や政治家に、「人権感覚」など、期待すべくもなかろう。



 

[今週の一言][憲法情報Now][中高生のための憲法教室][憲法文献データベース][事務局からのお知らせ]
[トップページ]