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浦部法穂の憲法時評

 

憲法の言葉シリーズC「国」あるいは「国家」


浦部法穂・法学館憲法研究所顧問
2013年11月7日

 「国」という言葉は、それが何を意味しているのかを厳密に突き詰めることなく、いわば情緒的に使われることが、しばしばある。たとえば、誰もがごく当たり前のように使っている「わが国」という言葉。人はいったい何をイメージして「わが国」と言っているのだろうか。それを突き詰めて考えてみたとき、私は「わが国」という表現は非常に不適切なものではないかと考えるに至った。したがって、私は、1988年12月に『憲法学教室T』の初版を出すにあたって、私自身の言い方としては「わが国」という言葉は一切使わないこととし、以後、こんにちまでそれを貫いてきている。人が「わが国」という場合、そこでいう「国」は、地図によって私たちの頭にすり込まれた日本列島の形、全然面識もなく「顔」もわからないのに「日本人だ」ということだけで何となく仲間のように感じられる人々、それらの地域と人々を束ねる特定の「指導者」によって導かれた政治共同体、そういったものがフワッと一体化した「国」であるような気がする。「自分たちの国を自分たちで守るのは当然だ」、「国を愛する心をもつのは人として当然だ」等々といったことが言われる場合にも、やはりそういうフワッとした「国」がイメージされていると思う。

 しかし、たとえば、「これこれの問題について、国が対策に乗り出すことになった」などという場合の「国」は、端的に「政府」、つまり官僚機構を含む統治組織(支配権力機構)としての「国」を意味している。「国」というものがこういう意味のものだとしたら、誰も(支配権力機構の中にいて権力を振るっている人は別として?)「わが国」などという意識はもたないはずである。権力支配を受ける側の多くの人々が、支配権力機構である統治組織としての「国」を「わが」ものと思えるはずはない。多くの人にとって、権力は「自分のもの」ではないのだから。同様に、「国」が端的に支配権力機構を意味するのだとしたら、「国を守る」とか「国を愛する」というのは、「支配権力機構を守る」、「支配権力機構を愛する」ということと同義になるから、そんなことが「当然だ」などという理屈は誰にも受け入れられないはずである。それなのにそれを受け入れさせてしまう情緒性が、「国」という言葉にはあるのだと思う。

 一方、「国家」という言葉は、「国」よりも形式張った言い方になるが、「国」とほとんど互換的に用いられることも多い。上述の例で、「わが国」という場合を除いて(「わが国家」とは、普通には言わないだろう)、「国」を「国家」と言い換えても、意味はそのまま通じる(「国家を守る」、「国家を愛する」、「国家が対策に乗り出す」etc.)。「国家」のほうが「国」よりも堅苦しい感じがするので、その分「国」よりも情緒性は減ずるが(だから「わが国家」とは言わない?)、それでも、いろいろな要素がフワッと一体化したものとして用いられるという点は、同じである。「国を守る」でも「国家を守る」でも、あるいは「国を愛する」でも「国家を愛する」でも、領土を守る(愛する)のか国民を守る(愛する)のか、あるいはいまの統治体制を守る(愛する)のか、そういうことを突き詰めないままに、「国」や「国家」という言葉で包み込んで、何となく人々を納得させてしまうわけである。一方で、領土や国民を抜きにした支配権力機構だけでも「国」とか「国家」と表現されるのに・・・。

 じつは、この点に、「国」とか「国家」というものの本質がある。こんにち私たちが一般に用いている「国家」という言葉(およびそれと互換性をもって使われる「国」という言葉)は、英語では"state"である。というより、「国家」は英語でいう"state" の翻訳語である。つまり、英語でいう"state"に「国家」という言葉をあてたのである。このstateの意味での「国家」という言葉は、中国や韓国などでも同じように使われているが、もともとの漢語の言葉ではなく日本で作られた「和製漢語」であるという。それが、中国にいわば逆輸入されて、漢字圏で同様に使われるようになったわけである。だが、"state"とその翻訳語としての「国家」とには、翻訳語の常ともいえるが、意味のズレがある。

 英語のstateはラテン語のstatusを語源とし、もともとの意味は「状態」という意味である。この「状態」という意味の言葉が「国家」の意味に用いられるようになったのは、フィレンツェの政治思想家マキアベリが「まず支配機構としての"lo stato"(イタリア語で「この状態」)がある」と述べたところから、「状態」を表す"state"(イタリア語の"stato")が支配機構を指す言葉に転用されたのだ、という。だから、英語でいうstateは、元来、もっぱら支配権力機構を指す言葉であり、領土や国民を含む政治共同体を表す言葉ではなかったのである。つまり、"state"は支配権力機構のことであり、それ以上のものを含んでいないのである。したがって、その翻訳語としての「国家」も(それと互換的に用いられる「国」も)、もっぱら支配権力機構を意味するものとして理解されるべきはずのものである。上述した「国(国家)が対策に乗り出す」というような用語法は、stateの翻訳語としての「国家」(「国」)の意味に忠実な用法だといえよう。

 しかし、"state"の意味を離れて、「国」とか「家」という言葉は、もともとの漢語そして日本語にもあったし、「国家」という用語法もなかったわけではない。漢語としてのもともとの意味でいえば、「国」は諸侯が治める支配地・支配民を表し「家」は諸侯の家臣である「卿大夫」の領地のことだという。いずれも、一つの権力によって支配される一定の範囲の土地と人民の政治共同体を表す言葉である。一方、日本語の「国(クニ)」は、海や天に対する陸地を意味する言葉であり狭い範囲の一地方を指す言葉であった。そして、「家(イエ)」は家族の住まいや家族集団を指す言葉であったという。だから、「クニ」も「イエ」も政治権力とは無縁の言葉であったのだが、やがて中世以後、「クニ」を一つの武家が支配するようになり、そういう一つの「イエ」によって支配される「クニ」というものが政治支配の単位として確立されることとなった(たとえば、武蔵のクニとか駿河のクニとか)。こうして、元来政治権力とは無縁であった「クニ」や「イエ」が政治支配の単位として組み込まれることによって、政治共同体を表す意味合いをもつこととなったわけである。そういう意味で、漢語や日本語の「国家」という言葉は、特定の支配権力のもとに束ねられた土地と人民の政治共同体という意味合いを含んだ言葉だといえる。

 この「国家」という言葉を、元来政治共同体という意味とは無縁の"state"の翻訳語にあてたことで、支配権力機構としてのstate=国家の本質が後景に隠されることになっているのだと思う。支配権力側は、国民に対し、自分たちの暮らしているこの土地や自分の周りの人々という共同体的側面を強調することによって、それらを守り愛することが「国」を守り愛することなのだと思い込ませ、そうして現在の支配権力機構(これこそが、まさに、マキアベリのいう"lo stato"であり、"state"すなわち「国家」である)への国民の「忠誠」を調達しようとするのである。

 「国家」="state"の本質は、"state"の元来の意味が示すとおり、支配権力機構である。支配権力機構こそが「国家」なのであって、一定の土地とか人民の「共同体」が「国家」なのではない。「国家」という言葉自体が共同体的意味を含んでいるだけに、そしてまた、その原語である"state"も近代以降の"nation state"(「国民国家」)というイデオロギーによって政治共同体としての意味合いをもたされるようになっているだけに、このことはなかなか理解しがたいかもしれない。しかし、とりわけ支配権力側が「国家」とか「国」ということを声高に叫ぶときには、私たちは、「国家」や「国」の本質は支配権力機構なのだということを、つねに思い起こすべきである。



 

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