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浦部法穂の憲法時評

 

憲法の言葉シリーズE「自衛権」


浦部法穂・法学館憲法研究所顧問
2014年4月24日

 今回の「憲法の言葉シリーズ」は、「憲法にない言葉」である。最近話題の「自衛権」。これは、「個別的」であれ「集団的」であれ、憲法のどこを探しても出てこない言葉である。もともと、「自衛権」というのは国際法上の概念であって憲法上のものではないから、憲法に「自衛権」という言葉がないのは、おかしなことではない。ただ、国際法上の問題が憲法解釈に影響を及ぼすということはあり得るから、憲法には書かれていない「自衛権」という言葉が憲法解釈の問題として議論の対象になることも、まったくあり得ない話だというわけではない(もちろん、内閣が憲法解釈を変えていいのかという問題は、まったく別の話である)。だが、その際には、「自衛権」という概念が元来国際法上のものである以上、その国際法的な沿革や意味をきちんと理解したうえで議論する必要がある。

 国際法上、自衛権とは、国家または国民に対して急迫不正の現実の侵害があった場合にやむを得ず実力をもってその侵害を排除する国家の権利だとされる。そして、この自衛権は、主権国家の「固有の権利」だといわれる。が、そもそも、国際法上「自衛権」というものがとくに問題とされるようになったのは、国際的な「戦争違法化」論のなかにおいてであった。第1次世界大戦後、当時の人々の想像を絶する惨状を前に、戦争違法化の国際世論が急速に高まってきた。1920年の国際連盟成立に続き、1928年にはいわゆる不戦条約が締結され、戦争や武力行使を違法とする国際法的な枠組みができあがった。不戦条約は、「締約国は、国際紛争の解決のために戦争に訴えることを不法とし、かつその相互の関係において、国家的政策の手段としての戦争を放棄する」(第1条)として、戦争を違法だと宣言してその放棄を約束するとともに、「締約国は、相互間に起こりうる一切の紛争または紛議は、その性質または起因のいかんを問わず、平和的手段によるのでなければ、その処理または解決を求めない」(第2条)と定めて、戦争にいたらない武力の行使も禁止した。

 しかし、それにもかかわらず、米・英・仏など、それまで世界の分捕り合いをしてあちこちに植民地を確保してきた帝国主義列強や、そこに割り込んで新たな植民地の獲得・拡大をめざす日・独など新興帝国主義諸国は、植民地争奪戦をやめるわけにはいかなかった。だから、戦争や武力行使が「合法的」にできる余地を残しておく必要があった。そのために持ちだされたのが「自衛権」という概念だったのである。当時のアメリカの国務長官ケロッグは、フランスの外務大臣ブリアンとともに不戦条約の起草者として知られているが(したがって、この条約はケロッグ=ブリアン条約とも呼ばれる)、そのケロッグは、「不戦条約に関するアメリカの草案には、自衛権をいささかでも制限し又は害するものは何もない。この権利は、すべての主権国に内在するものであって、すべての条約のうちに暗黙に含まれている。すべての国は、いつでも、条約の規定にかかわりなく、攻撃又は侵入に対して自己の領土を防衛することが自由であり、そのときの事情が自衛のために戦争に訴えることを必要とするかどうかは、その国だけが決定する権限を有する」とする通牒を発した。そして、フランスもイギリスも、ドイツも日本も、このケロッグの見解に同意して、不戦条約に加入した。

 つまり、「自衛権」という概念は、「戦争は違法であり放棄する」という「建て前」の裏で、帝国主義諸国が「自分たちの権益を守るためには戦争も必要だ」という「本音」を言い繕うために、持ち出されたものなのである。米・英・仏などにとっては、とくに、それまで獲得してきた植民地に対する自分たちの権益を他国に奪われないようにするために、また、日・独などの新興帝国主義諸国にとっては、とくに、新たな植民地獲得と拡大のために、戦争や武力行使を正当化するもっともらしい理屈が必要だったのであり、それが「自衛権」という概念だったのである。つまり、「自衛権」というものは、帝国主義戦争を正当化するための概念であり、そのためにのみ意味をもつものだった、ということである。そういう意味で、「自衛権」という概念は、「帝国主義の遺物」というべきものである。

 「他国から侵害を受けたときに実力をもってそれを排除し国を守ることは、主権国家として当然のことであり、そういう意味で『自衛権』は主権国家の固有の権利だ」という論理は、たしかに一般に受け入れられやすい。スーッと入ってくる論理だろう。だが、国際法の世界では、第1次世界大戦以前には、「自存権」(right of self-preservation)なるものが、国家の基本権・絶対権だとされていた(日本では、「国家の生存権」などと言われることもあった)。「自存権」とは、たんに他からの侵害を排除すること(「自衛」)だけでなく、国を発展させ拡大すること、つまり、経済的・軍事的な力を増加させ、福利を増進させ、物資・資源を獲得し、領土を拡大することなど、を含む国家の権利だとされていた(横田喜三郎著『自衛権』参照)。かつての「大日本帝国」も、「自存自衛」を掲げてアジアを侵略し米・英などとの戦争に突き進んだ。こんな「権利」が国家の基本権・絶対権だなどという理屈は、いまではとうてい通用しないであろう。でも、それが国家の絶対的基本権だとされて疑われなかった時代があったのである。だから、自衛権は国家の固有の権利だという理屈も、決して普遍・不変のものではないはずだと、私は考える。

 日本国憲法は、「全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認」した(憲法前文)。これは、まさしく「帝国主義との決別宣言」である。そういう憲法のもとでは、「帝国主義の遺物」たる「自衛権」概念は、入り込む余地がないというべきである。それでも、《どこかから攻められたらどうするんだ!?》。でも、攻められたら、とくに日本のような小さな島国では、攻められたらどのみち「終わり」である。だから、「攻められたらどうするか」ではなく「攻められないようにするにはどうするか」を考えるのが、それこそ「現実的」な方策だと思う。



 

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