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浦部法穂の憲法時評

 

憲法の言葉シリーズF「自由」


浦部法穂・法学館憲法研究所顧問
2014年6月9日

 「自由」は、英語で言えばFreedomあるいは Libertyである。日本語では1つの言葉で表されるが、英語では2つの言葉に区別されている。ただ、英語で言うFreedomとLibertyがどう違うのかは、なかなか理解が難しい。もうかなり昔に、アメリカ人の研究者にFreedomとLibertyの違いを訊いたことがあるが、そんな違いを意識したことはない、という返事で、明快な答えは得られなかった。彼らは、別にどう違うのかなどということは意識せずに、ごく自然に使い分けているのであろう。1つの言葉しか持たないわれわれには、その感覚がわからないのも無理はない。2つの言葉が使い分けられている以上、そこには当然なんらかのニュアンスの違いはあるはずだと思うが、「オックスフォード類語辞典(Oxford Thesaurus of English)」によれば、FreedomもLibertyも、ともに、制約や拘束がないことを意味する言葉で、Freedomのほうがより一般的に制約や拘束の不存在を表すものだ、ということのようなので、さしあたりその程度に理解しておこう。ここでは、FreedomとLibertyの違いではなく、FreedomあるいはLibertyと「自由」の違いを考えてみることが主要なテーマである。

 「自由」という言葉自体は、もともとの日本語にあった言葉である。それを、幕末から明治の頃に、FreedomやLibertyの訳語として当てたのである。この点で、同じ「翻訳語」でも、「権利」や「個人」などが西欧の概念を翻訳するために新たにつくられた言葉であるのと、異なる。その、FreedomやLibertyの「翻訳語」としての「自由」は、日本国憲法97条が言っているように、「人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果」であり、輝かしい響きを持った言葉である。私たちは、人々が「自由」を求めることを当然だと考え、「自由」の抑圧には怒りを覚えるだろう。「自由」は追求されるべき価値であり、「自由」であることは「いいこと」なのである。

 しかし、もともとの日本語の「自由」という言葉は、そうした輝かしい響きを持った言葉ではなく、むしろ「よくないこと」というイメージを伴った言葉であった。それは、「わがまま勝手」、「したい放題」といった、よくない意味で使われることのほうが多かった。そのため、たとえば福沢諭吉は、FreedomやLibertyにはまだ適切な訳語がないと言い、「自由」という言葉も訳語の1つとしてあげてはいるが、しかし、原語(FreedomあるいはLiberty)は決して我儘放蕩を意味しないと、わざわざ断っている(福沢諭吉『西洋事情』)。福沢をはじめ当時の日本の知識人たちは、英語でいうFreedomやLibertyと日本語の「自由」が必ずしも意味的に一致するものではないことを自覚しており、FreedomやLibertyを「自由」と訳してしまうことには抵抗を感じていたのである。しかし、そのほかの訳語(たとえば「自主」、「自在」など)も原語の意味を十分伝えられるものではなく、結局、時を経て「自由」という訳語が定着したのであった。

 英語でいうFreedomやLibertyと日本語の「自由」の違いを端的に見ることができるのが、フランス人権宣言第4条の「自由(La liberté)は、他人を害しないすべてをなしうることに存する」とする規定であろう。西欧的な「自由」つまりFreedomやLiberty(フランス語ではliberté)は、その概念のなかに「他人を害しない」ことが当然の前提として含まれているのであり、他人を害するようなものはもはやFreedomやLibertyではないのである。これに対し、日本語の「自由」という言葉は、もともと、「わがまま勝手」、「やりたい放題」という意味合いを含んだ言葉であった。それをFreedomやLibertyの訳語に当てたことで、日本では、FreedomやLibertyの意味での「自由」(つまり、他人を害しないすべてをなしうるという意味での「自由」)と、わがまま勝手に何でもできるという意味での「自由」が、「自由」という1つの言葉のなかに混在することとなったわけである。こうして、日本では、「自由」というものが、とりあえずは何でもしたいようにできるという、非常に広いものとして理解されることになる。

 このような、「他人を害する」ことをもその範疇に含む「自由」の理解を前提にすれば、憲法がそんな「自由」を保障しているはずがないから、憲法が保障する「自由」にも一定の限界がある、ということになる。だから、憲法が保障する自由も常に「公共の福祉」によって制限される、という論理が当然のものとして容易に受け入れられることになる。かつて最高裁が「言論の自由といえども、国民の無制約な恣意のままに許されるものではなく、常に公共の福祉によって調整されなければならぬのである」(最高裁大法廷1949年5月18日判決)と述べたのは、こうした「自由」理解の端的な表明といえよう。これに対し、欧米的なFreedomやLibertyの観念では、他人を害するようなものは初めからFreedomやLibertyのなかには含まれていない。つまり、憲法的保障の埒外に置かれているのである。だから、先に引いた最高裁判決のような「憲法の保障する自由も無制約ではなく、常に公共の福祉によって制限される」といった類いの論理は、出てくる余地がない。

 もっとも、この違いが「自由」保障の程度に直ちに直結するわけではない。欧米的な観念では、原理的には、自由に対する公共の福祉による制限という問題は出てこないとしても、「他人を害する」とされる行為等は初めから憲法による保障の枠外に置かれることになるから、それにあたるとされるかぎり、その行為等を規制することがいいのかどうかの憲法的吟味は一切行われないことになる。これに対し、「自由」というものを、いったん「何をしてもいい」という意味のものとして広げておいて、しかしそれを「公共の福祉」によって制限する、という場合には、原理原則論的には、それを制限すべき理由が本当にあるのかどうかを憲法にもとづいて十分吟味する必要が出てくるはずである。とすると、日本的な「自由」理解のほうが、より自由保障に厚くなるとも考えられなくはない。しかし他方、日本的「自由」においては、FreedomやLibertyにあたる「いい自由」と「わがまま勝手」に何でもできるという「悪い自由」が混在しているため、「自由」が無条件に守られるべき価値とは考えられず、その結果「自由」の制限が比較的簡単に受け入れられてしまって、「いい自由」のほうまで制限されてもそのことに無頓着でいる、という傾向も否定できないように思う。そういう意味で、「自由」の制限に対しては、意識的に、敏感になる必要があろう。



 

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