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浦部法穂の憲法時評

 

「違憲」を「合憲」に変える「解釈変更」は許されない


浦部法穂・法学館憲法研究所顧問
2014年7月10日

 安倍政権は、7月1日、とうとう集団的自衛権行使を容認する「憲法解釈の変更」の閣議決定を行った。従来の政府解釈で「違憲」としてきたものを「合憲」に変えたのである。政府によるこのような「憲法解釈の変更」が立憲主義に真っ向から反するものであることについては、私は以前にも書いた(2013年9月23日付本欄「非嫡出子相続差別と集団的自衛権」)。そこでの要点は二つ。一つは、解釈主体の問題であり、もう一つは、「合憲」から「違憲」への変更か、「違憲」から「合憲」への変更か、その「解釈変更」の中身の問題である。前者の問題は、要するに、最終的な憲法解釈権は最高裁にあるのだから、内閣に憲法解釈権があるとしても、それは憲法の意味を確定的に決定してしまうような効果を持つものではなく、いわば暫定的なものに過ぎない、ということで、だから、内閣が「こう解釈することに決めた」と言っても、国会や裁判所がそれに従う必要は一切ない、ということである。そして、より重要なのは後者の問題であり、「合憲」から「違憲」への変更はともかく、政府や国会が「違憲」から「合憲」へ「解釈変更」することは絶対に許されない、ということである。集団的自衛権容認の閣議決定後、安倍首相は、誰の入れ知恵か知らないが、「行政権は内閣に属する」と規定する憲法65条を根拠にこの解釈変更が正当化される旨の主張をし出した。しかし、憲法65条から出てくるのは、行政権の行使にあたってその主体である内閣が憲法を解釈し一定の解釈を前提に置くことが必要となる場合もあるから、そのかぎりで内閣にも憲法解釈権がある、ということだけであって、憲法65条は、内閣の憲法解釈に確定的な意味を持たせたり、ましてや「違憲」を「合憲」に変えるような解釈変更を許容するものでは決してない。安倍首相(に入れ知恵した人物)は、そうした問題にまったく頬被りしている。そこで、以下では、とくに「解釈変更」の中身の問題に焦点を絞って、前に述べたことを少し敷衍して再論する。

 同じ「憲法解釈の変更」でも、従来合憲としてきたものを違憲と変更するのと、違憲としてきたものを合憲と変更するのとでは、その持つ意味は大きく異なる。そのことを理解するためには、まず、憲法というものが統治権力を制限することを目的としたものだ(統治権に対する法的制限)という、「立憲主義」の基本を、共通理解として持たなければならない。では、統治権力はなぜ制限されなければならないのか。それは、法的制限を受けない権力というものがどんなものかを考えてみれば明らかになろう。権力に対する法的制限が一切なかったなら、権力者はみずからの好みや思いどおりにその権力を振るうことができる。その支配下に置かれた人々は、権力者の好みや思い次第でその運命を左右されることになる。権力者の考え一つで、生かされもし殺されもする。権力者が代われば立場が180度変わることもあると、常々覚悟していなければならない。要するに、独裁・専制である。そういう統治体制を承認するのであれば、統治権に対する法的制限は不要である。しかし、そうでなければ統治権力は法的に制限されなければならない。そして、そのために存在する法が「憲法」なのである。

 こうした「立憲主義」の基本を共通理解として前提したうえで、内閣や国会による憲法解釈の変更ということを考えてみよう。内閣や国会は、統治権の主体として、憲法による制限を受ける「張本人」である。その「張本人」が、みずからを縛っている憲法を解釈してその意味を確定するということは、本来おかしなことだと言えなくもない。が、内閣や国会が行政権あるいは立法権を行使するに際して一定の憲法解釈を前提に置くことが必要となる場合もあるから、内閣や国会による憲法解釈自体を否定することはできない。しかし、だからといって、制限を受けている「張本人」に自由な解釈が許されるはずはない。統治権に対する法的制限の必要性を前提にするかぎり、「張本人」による解釈は、その制限を厳格に解する方向でなされるのが筋である。それは、ちょうど、泥棒が勝手に刑法を緩やかに解釈し「この程度のものを盗んでも罪にならない」と思っていたとしても罪を免れ得ないのと同じである。

 だとすれば、内閣や国会による「憲法解釈の変更」について、従来合憲としてきたものを違憲にするのと、違憲としてきたものを合憲にするのとでは、その意味が大きくちがうということは理解されると思う。従来合憲としてきたものを違憲だとして変更するのは、基本的に、統治権に対する制限をより厳格にする方向での解釈変更である。これに対して、従来違憲としてきたものを合憲と変更するのは、逆に、統治権に対する制限を緩めることを意味する。前者であれば、憲法による制限をより厳格に受け止めて権力行使にあたるということであるから、内閣や国会がそのような憲法解釈の変更を行っても、「統治権に対する法的制限」としての憲法の意味をただちに損なうということにはならないだろう。しかし、後者の場合には、内閣や国会が、これまでの憲法上の制限を自分たちで勝手に緩めたりなくしてしまう、ということを意味する。自分たちの解釈によってみずから課してきた制限なのだから自分たちがその解釈を変えることでその制限を緩めたりなくしたりしても問題なかろう、となりそうだが、それは違う。憲法による制限を、その制限を受ける「張本人」が勝手に緩めたりなくしたりしてはならない、ということは、統治権に対する法的制限の必要性を承認するかぎり、当然のことである。そして、みずからの解釈によるものであれ他者の解釈によるものであれ、いったん統治権に対する憲法上の制限として確立された以上は、それは憲法による制限以外のなにものでもなく、したがって、それを統治権の主体である内閣や国会が勝手に緩めたりなくしたりすることは、当然許されないのである。その制限を緩めたりなくしたりできるのは、憲法制定権者である国民だけであり、唯一可能な道は憲法改正の手続を踏むことだけである。そういう意味で、7月1日の閣議決定には、何の正当性もなく、何の法的意味もない。

 とは言ってみても、憲法による制限を「張本人」が勝手な解釈でなくしてしまうというこの不法は、国民がこの政権にNOを突きつけ退陣させないかぎり、まかり通ってしまう。政権を倒す以外にこの不法をただす手段はないのである。憲法による制限を免れてしまった権力の怖さである。



 

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