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浦部法穂の憲法時評

 

憲法の言葉シリーズG「平和」


浦部法穂・法学館憲法研究所顧問
2014年9月1日

 『戦争と平和』というのは、少なくとも名前だけは誰もが知っているであろうトルストイの名作だが、この表題にあるように、「平和」の反対語は?と問われれば、多くの人は「戦争」と答えると思う。英語の辞書でも、一般に、"peace"の対語は"war"とされている。つまり、「平和」とは戦争のない状態を意味する。これが「平和」という言葉の一般的な理解だろうと思う。しかし、1960年代の終わり頃から、「豊かさ」をますます貪欲に求める「北」側先進諸国と貧困・飢餓がますます深刻化する「南」の国々の格差などといったいわゆる「南北問題」がクローズアップされるなかで、世界の思想潮流は、「平和」の概念を、単に戦争がない状態というだけでなく、より広くとらえるようになっていった。たとえ戦争状態になくても、飢えや病気で大勢の人が死んでいく、あるいは、人々が、たとえば人種差別などのような、人としての尊厳を否定されるひどい人権侵害を受けている、そんな状態を「平和」と呼べるのだろうか、という認識が広まってきたのである。

 そういうなかで、ヨハン・ガルトゥングというノルウェーの学者が提唱したのが「構造的暴力」という考え方である(ガルトゥング〔高柳先男ほか訳〕『構造的暴力と平和』)。彼は、「平和とは暴力の不在を意味する」として、「平和(peace)」の反対は「暴力(violence)」だとする。そして、そこでいう「暴力」については、ある人に対して何らかの力が行使された結果、その力の行使がなければその人が実現し得たであろうものを実現できなかった場合、そこには「暴力」が存在するとし、それには、その力の行使の主体がはっきりしている「個人的暴力(personal violence)」(「直接的暴力」)と、行為主体がはっきりせず社会構造に組み込まれた「構造的暴力(structural violence)」(「間接的暴力」)とがある、という。この二つの「暴力」が存在しないことが「平和」なのだ、というのである。そしてガルトゥングは、この二つの「暴力」概念に対応して、個人的(直接的)暴力がない状態を「消極的平和(negative peace)」、構造的(間接的)暴力がない状態を「積極的平和(positive peace)」と呼ぶ(なお、"personal"を「個人的」と訳すのは語感的に少々違和感もあるが、ほかに適切な訳語を思いつかないので、さしあたりここでは、一般的に用いられている「個人的」という訳語を使う)。


出典:United Nations Peace Education
http://www.un.org/cyberschoolbus/peace/content.htm

 以上の区分に従えば、戦争は行為主体がはっきりしているから「個人的暴力」である。これに対し、貧困・飢餓や人種差別などは、誰かの個人的行為によってもたらされたというより、社会構造にビルトインされた「暴力」であるから、「構造的暴力」である。だから、戦争がない状態は「消極的平和」であり、貧困・飢餓や人種差別などのない状態は「積極的平和」だということになる。つまり、戦争がないというだけでは、いまだ完全に「平和」だとは言えないのであり、「構造的暴力」も克服してはじめて本当の意味の「平和」と言える、ということである。こんにちでは、こうした考え方が、以下の図のようにより整理された形で、「国際標準」となっている。

 じつは日本国憲法のいう「平和」も、これと同じだと考えられる。これまでもいく度かの機会に触れたと思うが、日本国憲法の平和主義の根底にある「哲学」は、前文の「われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する」という一文に表されている。つまり、ここでいういわゆる「平和的生存権」は、戦争から免れて生きるというだけでなく、あらゆる恐怖(戦争や軍隊による恐怖も、圧政と隷従・差別などがもたらす恐怖も、すべて含めて)、そして貧困・飢餓などのあらゆる欠乏から免れて生きる権利として語られているのである。だから、日本国憲法のいう「平和」は、単に「消極的平和」を意味するのでなく「積極的平和」をも含む概念だと考えることができる。日本国憲法はそういう「平和」概念を、それが世界的な主流となるよりも20年以上も前に、すでにとっていたわけである。

 さて、安倍首相は最近「積極的平和主義」という言葉をよく使う。だが、それは、上に述べた「積極的平和」とは全然意味が違う。集団的自衛権容認も「積極的平和主義」だというのだから、要するに軍事力を積極的に行使して「平和」を保つというのが、彼のいう「積極的平和主義」である。しかし、その言葉は、とりわけ「平和主義」という言葉は、国内向けのごまかしである。前にも取り上げた(2013年10月7日付本欄)ハドソン研究所での演説のなかで、安倍氏は、日本の国を "Proactive Contributor to Peace" にしたい、と言っている。これが日本語訳では「積極的平和主義」の国にしたい、となっているのである(首相官邸のホームページで英文も日本語訳も両方見られる)。つまり、「積極的平和」を意味する"positive peace"という言葉はいっさい用いていないし「平和主義」を表す"pacifism"という言葉も使っていないのに、日本国内向けには「積極的平和主義」と言っているわけである。意図的な言葉のごまかしで国民をだますものだというべきだろう。"Proactive"という言葉は、「先取りする」、「先を読んで行動する」という意味をもつ言葉で、reactiveの対語である。だから、"Proactive Contributor to Peace"とは、何かことが起きる前に先手をうって行動し「平和」に貢献する主体、という意味になる。危険な気配があれば先制攻撃してでも「平和」を保つ、そういう国にしたい、と言っているのである。こんなものが「平和主義」であるはずがない。

 もっとも、「平和」を意味する"peace"の語源をさかのぼれば、ラテン語の"pax"である。"Pax"という言葉は、(たぶん近代以後だと思うが)、"Pax Romana"とか"Pax Americana"とか、大国の覇権による「平和」を表す言葉として使われることが多かった。そういう語源的な意味からいえば、"peace"の実現のためには強大な一国による"proactive"な行動が必要だ、ということになるのかもしれない。しかし、それは、日本国憲法の「平和主義」とは完全に相反するものである。はたして安倍氏は、「積極的平和主義」というまやかしのもとに、"Pax Iaponica"を夢見ているのであろうか。



 

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