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浦部法穂の「大人のための憲法理論入門」

 

第1回 憲法はなぜ憲法なのか?


浦部法穂・法学館憲法研究所顧問
2014年10月20日

 憲法はなぜ憲法なのか? つまり、憲法はなぜ憲法として通用するのか? ―― この問いに、さっと答えられる人は、はたしてどれくらいいるだろう。では、ほかの法律、たとえば民法とか刑法とか、そのほか数多くの法律があるが、それらが法律として通用するのはなぜか? これだったら、多くの人が答えられると思う。そう、国会が定めたものだから、である。国会が制定したものがなぜ法律として通用するのかといえば、 憲法がそう定めているからである。憲法に「国会は唯一の立法機関である」と書いてあるから(41条)、国会が制定したものが法律として通用するわけである。ただし、憲法は、国会が法律を制定する際の手続きや、法律で定めるべきことがら、あるいは法律をもってしても侵害してはならない事項(国民の権利など)といった、法律の中身に関しても定めている。だから、国会が制定すればどんなものでも法律として通用する、というわけではない。憲法の定める手続きに従って作られ、憲法の定める事項や制限に反しない内容のものだけが法律として通用することになるのである。要するに、法律が法律として通用する根拠は、すべて憲法にあるわけである。

 では、憲法の場合はどうか。憲法について、誰が(または、どういう機関が)、どういう手続きで、どんな内容のことがらを定めるのか、といったようなことは、どこにも書かれていない。憲法の制定権者や制定の手続き、あるいは憲法が規定すべき内容、といったことを定めている「法」は存在しないのである。つまり、ほかの法律とはちがって、憲法の場合には、それが憲法として通用する根拠をなんらかの「法」に(少なくとも現存する実定法に)求めることはできないのである。とすると、憲法が憲法であるゆえんを法的に(なんらかの「法」にもとづいて)説明することは、非常に難しいことになる。難しいが、しかし、たとえば私が理想的な憲法の条文を作って「今日からこれが日本の憲法だ」と宣言しても、それが憲法として通用しないことは明白である。でも、いま世界中の国々でそれぞれの国の憲法として通用しているものも、誰かが(一人ではなく何人も集まって、という場合が多いだろうが)条文を作り、誰かが「今日からこれがこの国の憲法だ」と宣言して憲法として通用している、ということに違いはないはずである。私が同じことをした場合と、なにが違っているのだろうか。憲法が憲法として通用するためには、どんな条件が必要なのだろうか。

 歴史的な事実として言えば、憲法というものが作られるのは、多くの場合、革命やクーデターや戦争などによって、国の権力構造が大きく変動したときである。そうして権力を掌握した人々(勢力)が、その新しい体制の安定を図るために、憲法というものを制定したのである。つまり、権力を握った者が憲法として作り宣言したものが憲法だ、ということになる。私が作って宣言しても憲法にならないのは、私は権力を握っていないからである。だから、憲法の制定という行為は、なんらかの「法」にもとづいて行われる行為ではなく、裸の実力にもとづく行為だといえる。しかし、とはいえ、権力者が作って「これが憲法だ」と宣言しても、それだけで憲法として通用することになるわけではない。その権力の支配に服する人々、つまりその国の構成員(近代国家においては国民)が、「これがこの国の憲法だ」と認めてはじめて、それは憲法として通用する。権力を握った者がいくら「これが憲法だ」と宣言しても、それを正当化する法的な根拠はない。だから、被支配者(国民)の承認ということ以外には、正当化根拠は見出せないのである。

 国民に承認させる方法として、強権的な支配によって力づくで従わせるという方法もあるだろうし、権力者を神格化しその超越的権威によって承認させるという方法もあろう。しかし、こういう方法は、遅かれ早かれ「化けの皮」がはがれて破綻する。18世紀のいわゆる近代市民革命によって権力を掌握し、「憲法」="Constitution"という支配装置を発明した人々は、より合理的で安定的な方法を開発した。それが「近代立憲主義」である。それは、被支配者である「国民」を至高の存在とし(国民主権)、その「国民」がみんなで一緒に国の基本的なあり方を決めたものこそが憲法であり、この憲法にもとづいて権力は構成され、憲法の認める範囲でのみ権力は行動できる、とするイデオロギーである。絶対王政の専制的な権力を倒して新しい国家体制を打ち立てた当時の人々は、「権力をもつ者は放っておけば権力を乱用する」という、権力に対する懐疑の念を、まさに実体験として共有していた。たとえそれが「国民意思」にもとづく権力であったとしても、実際にその権力を委ねられた者は、やはり放っておけばその権力を乱用しかねない、だから憲法によって権力を縛っておく必要があるのだ、という考え方は、したがって、「国民」に広く受け入れられうるものとなったのである。このイデオロギーによって、憲法は、権力支配の道具ではなく、逆に権力を縛るための国民意思の表明となり、国民の承認を獲得できたのである。憲法は主権者である国民が権力を制限して自分たちの権利・自由を守るために定めたものだ、という考え方が広まることで、国民がそれを憲法として認め、憲法は憲法として通用することとなったといえる。

 そういうわけで、憲法が憲法として通用するのは、上記のような考え方が受け入れられて国民がそれを憲法として認めているからだ、ということになる。憲法を憲法たらしめる根拠は、このような、ある意味、非常に脆いものだといえる。しかし、それは逆に、憲法にとっての「強み」でもある。次回は、そのことを考えてみよう。

 

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