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浦部法穂の「大人のための憲法理論入門」

 

第2回「約束事」がぐらついたら、おしまい


浦部法穂・法学館憲法研究所顧問
2014年11月10日

 前回、憲法が憲法として通用するのは国民がそれを憲法として認めているからだ、と述べた。だから、国民が「こんなものは憲法ではない」と考えたら、憲法はもはや憲法ではなく、小難しい文章の書かれた「紙切れ」に過ぎないものとなる。国のあり方の基本を定める「最高法規」だというのに、その有効性は国民が憲法と認めるかどうかにかかっているというのだったら、憲法というのは何とも頼りない根拠の上に立っているものだ、と思われるかもしれない。だが、すごく重要なものでありながら、国民がそう認めているからそういうものとして通用するというものは、じつは他にもある。

 1万円札はなぜ1万円として通用するのか。あの「紙」じたいが「モノ」として1万円の価値をもっているわけではない。そしてまた、こんにちの紙幣は不換紙幣であるから、1万円札の1万円の価値を担保する物はなにもない。それにもかかわらず、あの「紙」が1万円として通用するのは、人々がそう認めているからである。《日銀が発行したあの「紙」を1万円ということにしておこう》という「約束事」が人々の間に成立し、その「約束」は破られないだろうと人々が信用しているから、1万円札は1万円として通用するのである。もしその「約束事」がぐらついて、人々が、「あんなものは何の価値もない」と考えるようになったら、1万円札はもはや1万円として通用せず、少々精巧な図柄が印刷された「紙切れ」に過ぎないものとなる。紙幣(貨幣)は、一国の経済のまさに基本である。それなのに、人々がそう認めているかどうかにその有効性がかかっている、やはり頼りないものだということになる。経済の基本になる貨幣も、国政の基本になる憲法も、そういう「頼りなさ」という点で共通している。

 だが、ここで考えてみてほしい。人々が1万円札を1万円として認めなくなったとしたら、「あんなものは何の価値もない紙切れだ」と考えるようになったとしたら、はたしてどういう事態になるだろうか。いうまでもなく、日本の経済はガタガタに崩壊する。世界経済も大パニック・大恐慌を引き起こすだろう。だから、いまの経済秩序を守ろうとするなら、人々に、1万円札には1万円の価値があると、認めさせ続けなければならない。《あの「紙」を1万円ということにしておこう》という「約束事」を決してぐらつかせることなく、貨幣に対する人々の信認を維持することは、一国の権力者の重要な任務となるのである。

 それとまったく同じことが、憲法にも言えるのである。もし国民が現行の憲法を憲法として認めなくなったとしたら、現在の統治機構はその存立根拠を失い機能しなくなる。政府も国会も裁判所も、その他どんな機関も、すべて現行の憲法のもとで存立し権限を認められているのだから、その憲法が否定されたら、いっさいの国家機関は「無」の状態となり、そのもとに成立している国家権力は正当性を完全に失う。つまりは、国家の崩壊である。人々が1万円札を「ただの紙切れだ」と思うようになったら経済が崩壊するのと同じく、国民が憲法を「ただの紙切れだ」と思うようになったら国家が崩壊するのである。だから、いまの国家体制を守ろうとするなら、したがって国家権力を握っている者は、国民に、いまの憲法を憲法だと認めさせ続けなければならない。憲法理論上は、本来そうなのである。

 その国民の承認を獲得するために考え出されたのが、前回も述べたように、憲法とは「権力を制限するために国民が制定したものだ」とするイデオロギー、すなわち、「国民の憲法制定権力」を前提とする「立憲主義」の考え方である。だが、「権力を制限するために国民が制定した」というのは、必ずしも歴史的な「事実」ではない。歴史的な事実の問題としていえば、権力を握った者がその権力支配の安定を図るために憲法を制定したというのが、ほとんどであろう。にもかかわらず、「権力を制限するために国民が憲法を制定した」ということにしておかなければ、権力は(少なくとも「国民主権」とか「民主主義」ということを標榜する権力は)正当性は主張できず、したがって国家の権力体制を維持することができない。だから、これも、ある意味、1万円札と同じ意味での「約束事」である。「事実」がどうであれ、つまり、誰が憲法の草案を起草し誰がそれを確定したか等々の「事実」がどうであれ、《国民が憲法として制定したということにしておこう》という「約束事」である。実際、多くの国の憲法は、制定過程の「事実」がどうであれ、それが国民意思の表明として国民の制定したものであるということを、憲法自身のなかに明文で書き込んでいる(たとえば、アメリカ合衆国憲法前文、ドイツ基本法前文、フランス憲法前文、そして、日本国憲法前文)。この「約束事」が国民の間で共有されていることによって、憲法は憲法として通用し、そして権力は、その憲法にもとづくものとして正当性を認められることとなるのである。だから、いまの国家権力体制を維持しようとするなら(したがって権力を握っている者にとっては)、この「約束事」がぐらつかないようにすることが、権力支配の安定のために、きわめて重要なこととなるはずである。

 上に私が「約束事」と言った事柄は、国民をだますための権力側の「仕掛け」で「まやかしだ」とみることもできよう。しかし、「まやかし」であるとしても、権力の側はそう簡単には「まやかし」の正体を暴露することはできない。そんなことをすれば、自分たちの権力に正当性がないと宣言することになってしまうからである。ここに、「近代立憲主義」の大きな意味がある。「国民」の側つまり権力支配に服する側は、「権力を制限するために国民が憲法を制定した」ということを、それが「事実」ではなくても、大きな声で主張できる。そういうことにしておこうという「約束事」のもとに憲法が通用し、そして権力の源泉はすべてその憲法にあるのだから、権力者の側は、この国民の側の主張を正面きって否定することはできない。だから、権力の側は、憲法によって課された諸制約を、そう軽々には踏み外すことができないのである。こうして、憲法が権力の乱用を防ぐものとして機能することとなり、「国民」の側から権力に「縛り」をかける「道具」として使えることになるわけである。憲法が憲法として通用するのは国民がそれを憲法として認めているからだ、というのは、一見頼りなさそうではあるが、上述した「約束事」を国民が明確に自覚しているなら、憲法にとっての強力な根拠になるといえるであろう。

 以上に述べたことに対しては、日本の実情とは全然違うではないか、と訝しく思う人も多いだろう。たしかに、日本は、まったく逆だと言ってもいい状況である。政権を握っている勢力が現行憲法を否定するようなことを平気で言う。「押しつけ憲法」で日本国民が自主的に作った憲法ではない、などと、上に述べた「約束事」をぐらつかせるような言説が、ほかならぬ権力の側からしつこく流布される。それにもかかわらず、その「反憲法」勢力の政権は、正当性を否定されるどころか、ほとんど安泰である。本来なら、現行憲法を否定する勢力はそのもとでの権力体制を否定する「反体制派」だということになるはずで、そんな勢力が政権の座についたら、一種の「クーデター」であって、その正当性に疑問符が付けられるのが普通だろう。そうした正当性に対する非難を受けることもなく、「反憲法」勢力が、現行憲法下でのほとんどの期間、政権の座に居座り続けているというのは、異常と言わずして何であろう。憲法理論的には、ありえない状況である。

 ありえない状況が現にあるのはなぜか? 私なりの一応の答えの用意がないわけでないが、ここは読者諸氏にじっくり考えてもらったほうがよいのではないかと思う。



 

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