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浦部法穂の「大人のための憲法理論入門」

 

第5回  憲法の「人権問題」と社会の「人権問題」


浦部法穂・法学館憲法研究所顧問
2015年2月5日

 毎年12月4日から10日までは「人権週間」とされている。1948年12月10日に国連において「世界人権宣言」が採択されたのを記念して、1949年以降、法務省と全国人権擁護委員連合会が、12月10日を最終日とする1週間を「人権週間」と定め、その期間中、人権尊重思想の普及高揚を図るためのさまざまな啓発活動を行っている。そこで取りあげられる「人権問題」は、たとえば昨年(2014年)の「強調事項」としてあげられているものをみると、女性に対するセクハラや職場における男女差別などの「人権問題」、児童・子どもに対するいじめや体罰、児童虐待、児童買春などの「人権問題」、障害のある人への差別などの「人権問題」、同和地区の人々への偏見に根ざす結婚差別や差別発言・落書きなどの「人権問題」、外国人に対する就職差別や入居拒否あるいは「ヘイト・スピーチ」といった「人権問題」、等々である(その他、全部で17項目があげられている。詳しくは法務省のホームページで)。これらはすべて、社会生活上の私人による「人権侵害」の問題である。

 一方、憲法が保障する人権は、基本的に国家公権力との関係における国民の権利である。だから、そこで問題とされるのは、たとえば、公務員法による公務員の政治活動の制限といった法律による権利制限や、教育委員会による公立学校教職員への国旗・国歌強制といった行政権の行使による権利侵害、等々、公権力による国民の権利侵害の問題が中心となる。つまり、憲法においては国家公権力による「人権侵害」の問題が主たる「人権問題」であり、社会生活上の私人による「人権侵害」の問題は、必ずしも中心的な「人権問題」とはされない。毎年の「人権週間」で取りあげられるような問題は、憲法論としては、私人相互間にどこまで憲法の効力が及ぶのかという「私人間効力」の問題として議論されることはあっても、憲法が直接対象とする「人権問題」ではないのである。とは言っても、それらの問題が「人権問題」でなくなるわけではなく、立派な(?)「人権問題」であることにまちがいはない。実際、法律家ではない一般の人々が「人権問題」として真っ先にあげるのは、こうした私人による「人権侵害」の問題であることのほうが多い。一般の人々の感覚においては、公権力による「人権侵害」の問題よりも私人による「人権侵害」の問題のほうが、より重大視されているようにもみえる。「人権」をめぐる憲法と一般の感覚との、この「ずれ」を、いったいどう考えるべきなのだろうか。

 すでに私はあちこちで再三述べてきたが、「人権」とは「人間として正しいこと」である。したがって、「人権侵害」というのは、「人間として正しいこと」を行うことが妨げられている状態、あるいは、ある人に対して「人間として正しくないこと」が行われている状態を意味する、といえよう。そして、そういう状態をもたらした主体が公権力なら許されなくて私人なら許される、というのは、ことが「人間として正しいこと」かどうかにかかわる以上、道理に合わない。だから、毎年の「人権週間」で、社会生活上の私人による種々の「人権侵害」の問題が「人権問題」として強調されること自体は、まちがっているわけではない。また、多くの人々にとって、公権力による「人権侵害」よりも社会生活上の私人による「人権侵害」のほうが、より日常生活に密着した場面で意識されやすいだろうから、一般人の感覚において後者のほうが重大視されているとしても、それはある意味自然なことだと言えなくもないようにみえる。

 しかし、憲法が公権力による「人権侵害」を中心的な「人権問題」としていることには大きな意味がある。近代国家は、国民の人権の実現を最大の使命としている。そのための法として定められたのが、近代憲法である。そして、そこでは、国民の人権の実現のために、まずなによりも国家権力が国民の人権の実現を妨げないことが求められる。権力というものは、なんの制約もなかったら、権力を握っている者の都合の良いように乱用されがちであり、それを防がなくては国民の人権は守られない。だから憲法は、まず第1に、公権力による「人権侵害」を禁止しているわけである。いわゆる「国家からの自由」である。これは、国民の人権の実現を使命とする国家が、いわば最低限守るべきことだといえる。

 国民の人権の実現を使命とする国家は、みずからがそれを妨げないというだけでなく、社会生活上で「人権侵害」が生じているときには、それをやめさせて人権の実現を図ることも、しなければならないであろう。社会生活上において「人権侵害」が生じているのに、国家が、自身の手による侵害ではないからというので、何もせずに傍観していたのでは、国民の人権の実現という国家の最大の使命を果たしたことにはならないからである。いわゆる「国家による自由」の実現もまた、求められるのである。しかし、「国家による自由」は、「国家からの自由」と、緊張関係に立つ。「国家による自由」は、人々が国家による介入や規制なく行動している場面(=「国家からの自由」が実現している場面)に、国家が介入することを認める、という意味合いをもつ。図式的に言えば、「国家による自由」を追求することは「国家からの自由」をその分縮減させる、という関係に立つ。とすると、人権実現のために「国家による自由」を求めた結果、逆に「国家からの自由」の後退つまり公権力による「人権侵害」を招くことにもつながりかねない、ということになる。

 もちろん、社会生活上において「人権侵害」が生じているとすれば、それはもはや人権としての「自由」ではないのだから(他者の人権を侵害する自由などない!)、そこに国家が介入・規制しても「人権侵害」にはならない。しかし、権力をもつ者はつねにそれを乱用しがちである、という認識を前提にするなら、「人権侵害」を理由に介入・規制を認められた権力が乱用されて、「人権侵害」ではない部分にまで権力側の都合や利益のために介入・規制が及ぼされ、その結果国家権力による「人権侵害」を招く、という危険を十分に意識しておく必要がある。権力担当者がそんなことをするはずがない、という確信があるなら、公権力による「人権侵害」よりも社会生活上の私人による「人権侵害」のほうを重大視するというのも理に適うが、そんな確信は、よほどの「お人好し」か「権力依存症」に罹患しているのでなければ持てないはずだと思うのだが……。



 

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