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浦部法穂の「大人のための憲法理論入門」

 

第7回 表現の自由の重要性がとくに強調されるのはなぜか?


浦部法穂・法学館憲法研究所顧問
2015年4月6日

 言論・出版などの表現の自由(あるいは、広く、内心の自由を含めた精神的自由権全般)は、とくに重要な人権だというようなことが、しばしばいわれる。では、ほかの人権は表現の自由ほど重要でないということになるのかといえば、もちろんそうではない。人権はどれも重要なものである。そしてまた、個々人にとって一番重要な人権はなにかということは、それぞれの人が現に置かれている状況によってまちまちであろう。「健康で文化的な最低限度の生活」が現実に営み得ない状況にある人にとっては、生存権こそが切実に必要とされる人権だということになろう。あるいは、自分で事業を営んで生計を立てている人にとっては、営業の自由が一番重要だと感じられるかもしれない。さらには、軍事基地の存在によって日常的に戦争や軍隊の脅威にさらされている人々にとっては、そうした軍事的脅威をいっさい感じることなく「平和のうちに生きる権利」が、なによりも重要となろう。そういう意味で、人権について、《これが一番重要で、二番目はこれ…》、といったようなかたちで「序列化」してしまうのは、正しくない。

 にもかかわらず、表現の自由の重要性ということがとくに強調されるのはなぜなのか。それは、表現の自由というものが、最も権力によって傷つけられやすい性質の自由であり、人権のなかで一番不当な制限を受けやすいものだからである。そのわけは、こうである。権力の側に立ってみると、表現の自由は、民主主義の権力としてのたてまえを前提とするかぎり、みずからの正当性の源泉として不可欠の自由である。それに、表現の自由は、権力に対する批判や反対が、暴力や革命にまで進展しないようにする「安全弁」としての役割を果たすこともある。そのかぎりで、権力の側にとっても、表現の自由は、一定の程度まではなくてはならないものである。しかし、逆に、手放しで表現の自由を認めるならば、権力そのものやそれを支えている既存の秩序を破壊する反体制的な活動を勇気づけることにもなってしまう。だから、権力の側からすれば、そういう危険は芽のうちに摘み取っておこうというわけで、権力やそのよって立つ既成秩序を脅かしそうな言論は、可能なかぎり抑圧しようとすることになる。その場合、正面から権力にとって危険だという理由を掲げて制限を加えることは、権力自身の民主主義的正当性を傷つけることになるから、利口なやり方ではない。したがって、やれ交通秩序の維持だの街の美観だの善良な風俗だの、その他もろもろのもっともらしい理由がつけられることになる。つまり、表現の自由が制限されている場合、一見もっともらしい理由がつけられていてもじつは権力にとって都合の悪い表現行為を抑圧することが目的である、という場合が少なくないのである。

 そしてまた、他人を害する行為の規制という、本当に憲法上許される目的のための制限を意図したものであっても、法律の規定上、規制対象となる行為を過不足なく明確に定めることが難しいという場合もある。これは表現行為の規制の場合に限らず、たとえば営業行為を規制する場合であっても同じなのだが、法律の規定上規制対象が必ずしも明確でないということになれば、その法律を執行する機関(警察や行政庁など)に法律の適用についての裁量の余地が出てくる。そうして表現行為の規制について権力側に裁量の余地が与えられることになれば、権力にとって都合の悪い表現行為をとくに厳しく規制するという形で、その法律が執行される危険も出てくる。そして、ひとたびこうした形で法律が執行されれば、国民の側は、規制を恐れて、権力に歯向かうようなことは言いたくても言えないようになる(いわゆる「萎縮効果」)。

 以上のような意味で、表現の自由は最も権力によって傷つけられやすく不当な制限を受けやすい人権だといえるのである。だから、表現の自由の重要性ということがとくに強調され、また、表現の自由に対する制限の合憲性は厳格な基準によって判断されるべきだとする「優越的地位」の理論が語られるわけである。以下、復習の意味で、表現の自由の重要性、つまり、表現の自由はなぜ保障されなければならないのか、ということをあらためて確認しておこう。

 第1に、そもそも言いたいことを言うのは人間のいわば本性である、ということがあげられる。すでに1644年にジョン・ミルトンが語ったように、表現の抑圧は、「自由で知的な精神に対して加えられる最も不愉快で侮辱的なもの」(ミルトン『アレオパヂティカ』)というべきなのである。それに、自分の考えを発表し他人の考えを知ることによって、人間は人格的な発展を遂げることができる。そういう意味で、表現の自由は、精神的・知的な存在である人間の尊厳そのものにかかわる人権である、ともいえるのである。

 第2に、私たちが考えることのうちには、当然、ひとりよがりや間違いということもあるが、それは、他人の考えに接することによって是正されうる。したがって、それぞれの人が自由に自分の考えを発表できるということによってはじめて、各人もそして社会全体としても、正しい結論に到達することができるといえる。少なくとも、表現の自由がないところでは、国や社会が間違った方向に進んでいっても、それを止める手立てはないことになろう。

 第3は、民主主義の基礎として表現の自由は絶対不可欠だ、ということである。国民主権原理に立つ政治的民主主義にとって、主権者である国民が自由に意見を表明し討論することによって政策決定を行っていくことが、その本質的要素であることは言うまでもない。この民主政治にとって不可欠な自由な意見発表と討論を保障するものとして、表現の自由はきわめて重要な意義をもつ。こうした観点からいえば、とりわけ「政治的な」言論が自由に交わされることこそが、憲法における表現の自由の保障の中核をなすものとして位置づけられなければならないこととなるはずである。



 

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