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浦部法穂の「大人のための憲法理論入門」

 

第14回 社会保障を考える(3)〜社会保障の歴史@


浦部法穂・法学館憲法研究所顧問
2015年11月5日

 社会保障制度が確立されてきた歴史をごく簡単に見てみよう。

 まず中世においては、とくにイギリスで発達した救貧制度がある。15 世紀から16 世紀にかけてのイギリスで、戦争や「囲い込み」、ギルドの弱体化その他様々な要因により、大衆が非常に窮乏化し、いわゆる浮浪者が増大した。働く場所もなく生活もできない人たちが街中に溢れ、治安の悪化が大きな問題となったのである。こうして、1531 年、ヘンリー8 世治下、教区や都市といった地方単位の救貧政策が行われるようになった。しかし、地方単位では対処できないほどに全国に浮浪者が溢れる状況になり、1601 年、エリザベス女王の時代に、国家単位の救貧政策として「エリザベス救貧法」が作られた。これは、病気などで働けない貧民は国家が食べ物を与えるなどして救済する一方、労働能力のある貧民は、いわゆるwork house(救貧院とか懲児院)に収容して強制的に労働をさせる制度であった。つまり、この法律は生活困窮者の救済を目的とするものではなく、あくまで治安目的であり、働けるのに働かない者を懲らしめ、その根性を叩き直し働くようにさせる、というのがこの救貧法の趣旨であった。これは要するに、その人が怠けているから貧困に陥っているのであり、貧困はその人個人の責任であるいう考え方にたつものだったのである。

 このような考え方がこの時代のイギリスで支配的だったのは、一つにはプロテスタンティズムの影響がある。イギリスはローマカトリック教会と長年対立を続けてきたところで、カトリックとプロテスタントの争いを収めるために、イギリス国教会を作ったが、その基本はカトリックに対抗するプロテスタントの考え方である。このプロテスタンティズムのもとでは、マルティン・ルターが「怠惰と貪欲は許されざる罪だ」と言ったように、貧しいのは本人の怠惰のためであり、その人の罪だと考えられた。だから、国が手を差し伸べて救う必要はない、その罪を犯さないように矯正させることが必要だ、ということになる。それが救貧法の考え方だったのである。

 その後18 世紀の中頃以後、イギリスでも次第に中産階級が増えていくことになる。いわゆるジェントルマンの層である。この中産階級の間で次第に広がってきたのが、いわゆる博愛主義である。自分の生活に余裕ができると、困っている人に手を差し伸べようという博愛主義が広がってくるわけで、これがイギリスのジェントルマンのステイタスシンボルのようにも考えられるようになってきたのである。そういう状況の中で、従来の過酷な救貧政策というものが一定の改善を見ることになった。たとえば、従来は貧民を救貧院に全部収容して強制的に就業させていたが、貧民のうちの健常者は院外救済ということで、救貧院には収容せず自宅で仕事をさせるというような制度に変わり、救貧院に収容されるのは病人とか老人とか働けない人だけということになった。また、そうやって働いても生活のための下限収入を下回るような家庭には救貧手当を支給する、という制度も18 世紀の中頃以後登場した。これは現在の生活保護に近い制度であるが、しかし、あくまでも恵まれた人が困っている人に対して施しをする博愛主義であった。

 このような救貧施策を行っていくためには、当然お金がかかる。そのため、「エリザベス救貧法」が作られた時から、救貧税という税が徴収されることになった。しかし、18世紀半ば以後、救貧手当を支給する制度ができると、手当を支給する財源を確保するため、救貧税がどんどん上がっていった。しかも、手当がもらえるということで、雇う側も雇われる側も、手当をあてにして、賃金はこれぐらいでいいだろうという意識が生まれ、一生懸命働かなくなる、あるいは雇う側は賃金を低く抑えて上げない、といったようなことにもなってきたのである。

 このような制度に対しては当然批判が出てくるわけだが、しかし、「救貧手当を配るような制度は駄目だ」という批判が通用しないような状況が、19世紀の後半以後生じてきた。その頃のイギリスは慢性的な不況で、大量の長期失業者が発生した。失業者がたくさんいると、職を得ている労働者の賃金もどんどん下がっていく。職を求めている人はいっぱいいて、代わりはいくらでもいるので、職を得ている人は、嫌ならやめろということで、いつでも首を切られてしまう。だから文句も言えず、どんどん賃金は下げられていく。そういう社会状況の中で、貧困者がますます増大していったのである。失業によって貧困になるという人たちだけでなく、働いていても貧困になるという人たちが大量に出てきたのである。そういう状況のもとでは、貧困は個人の責任だというようなことは、もはや言っていられなくなり、この社会の仕組みそのものが貧困を生んでいるのだという認識が、次第に人々の中に定着してくることになったのである。こうして失業は「社会の疾病」だと考えられるようになり、貧困は個人の責任というより社会の責任だと考えられるようになってきたのである。社会の責任である以上、貧困対策は国家の責任においてきちんとやらなければいけないという意識が、次第に人々に共有されるようになったのである。

 こういう社会状況と同時に、外的な要因として社会主義の思想や運動が19 世紀後半から各国で高まってきたことがあげられる。労働条件がどんどん劣悪化していくという状況の中で、労働者の運動が社会主義思想と結びついて、次第に社会主義運動へと転換していくことになった。19世紀後半というのは、ちょうどマルクスとエンゲルスが活躍していた時期である。そういう時代背景のなかで、支配階級の側にも、このままでは労働者の運動が資本主義体制そのものを覆すところまで行くのではないか、という危機感が生まれてきた。そこで、労働者階級を懐柔するための策として、貧困や失業に対する対策がどうしても必要になってきたのである。

【つづく】



 

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