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浦部法穂の「大人のための憲法理論入門」

 

第15回 社会保障を考える(4)〜社会保障の歴史A


浦部法穂・法学館憲法研究所顧問
2015年12月7日

 貧困・失業対策を最初に手がけたのは、ビスマルクのプロイセンであった。プロイセンでは、1883年に疾病保険法、1884年には災害保険法、1889年には老齢保険法と、いわゆる「ビスマルクの社会政策三部作」といわれる法律が作られた。こうしてプロイセンでは、社会保険を中心とした疾病、災害、老齢に対する保険制度が確立されたのであった。
 このようなプロイセン時代の社会政策の背景があって、ドイツでは、1919年のワイマール憲法において、「すべての者の人間たるに値する生存の保障」という原理が宣言された。ワイマール憲法は現代的ないわゆる生存権を中心とする社会権を初めて規定した憲法だとされている。そして、このワイマール憲法のような考え方が、とりわけ第二次世界大戦後に世界各国に広がって、生存権を中心とするいわゆる社会権が、憲法上の権利として保障されることになっていったわけである。
 また、イギリスでは、19世紀後半以降、貧困対策は国家の責任だという認識が次第に広まってきたことを受けて、1906年に老齢保険法、1911年には国民保険法がつくられた。その後、1942年には、従来からの健康保険、失業保険、老齢保険といった社会保険制度を中心にしながら、それに公的扶助その他の関連諸サービスを総合した社会保障政策が、「ベヴァリッジ報告」によって提言された。これを受けて様々な制度がつくられ、「ゆりかごから墓場まで」といわれるイギリス型の福祉国家が、第二次世界大戦中から戦後にかけて確立されていったのである。

 では、日本の場合はどうだったか。日本で最初の救貧施策として定められたのは、1874年に太政官布告の形で制定された恤救(じゅっきゅう)規則である。これは、村落共同体による救済と「家」的扶養を重視し、例外的に親族扶養や隣保的救済が不可能な「窮民」を対象とする救貧施策であった。その後かなりの年月が経って、1929年に救護法という法律が作られ(施行は1932年)、ここでようやく、国による救護義務が定められた。1874年から60年近くもの間、国による救護義務という考え方はまったく採られなかったわけである。ただし、1929年の救護法も、生活困窮者を救護する義務が国にあるという原則をとりながらも、労働能力のある人は適用外とし、また民法上の扶養義務を優先する救貧制度であった。それは、貧困は個人の責任であるという考え方を基本にするもので、救貧は天皇が臣民を慈しんで与える恩恵なのだ、とするものであった。扶養義務者による扶養を強調するのは、大昔の救護法の発想なのである。
 日本では、その後戦時下に、様々な保険的制度が確立されていった。まず、1939年には船員保険法が制定された。これは、医療保険と日本初の年金保険をあわせもった保険制度であったが、じつは国防上の理由から作られたものであった。つまり、軍事上の観点から船員の待遇をきちんと保障する必要がある、ということで作られたものだったのである。海運という意味で、船員を確保してその生活を守ることは、軍事的観点からも重要な意味を持つ。船員保険法は、そういう国防上の海運政策として制定されたものであった。そして、こうした観点は、1941年になって陸上労働者にも拡大されることになった。1941年の段階では、非事務系の男性労働者だけを対象とする形で、労働者年金保険法というものが制定されることになった。非事務系の男性労働者だけが対象とされたのは、軍事物資を作る現場の工場で働く人たちを確保するためであった。それが1944年に拡大され、厚生年金保険法に変更されて、事務系の労働者や女性も対象とされることになったのである。
 1939年の船員保険法から1944年の厚生年金保険法に至る動きの背景については、旧厚生省の年金局・社会保険庁がまとめた『改訂 厚生年金法解説』の中で、「戦時下において生産力を極度に拡充し労働力の増強確保を図る必要があり、そのための措置として要望されたこと、一方で時局下における国民の購買力の封鎖という見地から、この制度による強制貯蓄的機能が期待された」と説明されている。つまり、船員保険法も労働者年金保険法も厚生年金保険法も、社会保障政策というより、国防上の理由からの政策であり、かつまた、保険料の徴収によって、国民の購買力を削ぎ、制限するためのものだったのである。つまり、資源やマンパワーを国防にまわすための制度だったわけである。
 戦後になり、国防上の理由からの社会保障という考え方は、当然否定されることとなった。1946年に、まず生活保護法(現行法の旧法)が作られ、国家責任の原則、無差別平等の原則、最低生活保障の原則という三原則に基づく公的扶助制度が確立されることになった。そして、1947年の日本国憲法施行に伴って、失業保険法、児童福祉法が、1949年には身体障害者福祉法が、1950年には現行の生活保護法が制定された。さらに、1961年には国民健康保険法と国民年金法が全面的に施行され、すべての国民が保険に加入するという、いわゆる「国民皆保険・皆年金」が、制度上確立されることとなった。こうして憲法25条の生存権を実現するための法律が、一応整備されてきたのである。
 法制度的にみると、憲法25条の権利を保障するための法律は、こんにちまでに、十分に整備されてきたといえる。憲法25条はプログラム規定であって、生存権を具体的に保障する法律がなかったら国民は何も請求できない、という議論があるが、しかし、実際には生存権を具体的に保障する法律は存在するのである。それらの法律に基づいて、国民は、自分が「健康で文化的な最低限度の生活」を脅かされているという状況になったら、国に対して最低限度の生活を保障せよと請求できるのである。しかし、問題となるのはその中身である。実際の運用を含めて、その中身が本当に最低生活を保障するだけの水準になっているのかどうかが問われなければならないのである。

 一方、世界的に見ると、特に第二次世界大戦後においては、貧困が社会不安と戦争を引き起こした大きな要因の一つであるという認識のもとに、まず1948年の世界人権宣言が、前文で「恐怖と欠乏からの自由」を謳うとともに、22条に「社会保障を受ける権利」を明記した。ただ、世界人権宣言はあくまでも宣言にとどまるもので、法的強制力を持つものではなかった。それが、1966年に国連総会で採択された国際人権規約(社会権規約)によって法的拘束力のあるものとなった。日本もこの国際人権規約に加入しているから、国は国際的にも社会保障の義務を果たしていかなければならない、ということになる。



 

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