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浦部法穂の「大人のための憲法理論入門」

 

第16回 社会保障を考える(5)〜低成長下での社会保障の確立のために


浦部法穂・法学館憲法研究所顧問
2016年1月11日

 第二次世界大戦後、資本主義国家はいわゆる「福祉国家」への途を進むことになったが、それは一方で、資本主義社会という構造の中で必然的に生まれる貧富の格差を取り繕うことによって労働者階級の不満をやわらげ、それを体制内に取り込むという意味を持つものであった。つまり、「福祉国家」体制とは、資本主義国家の一つの属性なのである。しばしば、資本主義のもとでは国が国民の生活を全部面倒みるなどということはできない、というように言われたりもするが、国が困窮者の生活を保障しなければならないという考え方は、まさしく資本主義のもとで出てきたものであり、また、そういう国家体制を築いてきたのも資本主義国家なのである。だから「福祉国家」というのは現代資本主義国家の一つの形態なのである。
 「福祉国家」体制は、1970年代くらいまでは、高い経済成長を背景に充実していった。この時期は、経済のパイが膨らんでいって毎年税収は伸び、国の財政的な余力が大きくなっていった。したがって、体制の側も、労働者階級のいろいろな要求を受け入れることが可能だったのである。そうして社会保障の充実・拡充が図られると、社会保障を通じた所得の再分配がうまく回っていくので国民の購買力も更に増していき、国内需要も拡大していく。そのことによって経済成長もさらに促される。このような形で経済成長も社会保障も鰻のぼりという時代が、1970年代くらいまで続いたのであった。
 ところが、1973年のオイルショックを機に、これに陰りが出ることになる。高度成長を前提としたそれまでの社会保障の水準の維持が困難な時代に入っていくことになったのである。その頃には、「新興国」が台頭し、経済の「グローバル化」がだんだんと進んでいく中で、「先進国」の雇用と賃金の状態が徐々に悪化していくという状況が進行していくことになった。雇用も不確かになり賃金も下がっていくということで、生活に困る人が増え、社会保障の需要は大きくなっていく一方で、税収は伸びず財政的にそれを支えきれない、という状況に陥っていったのである。これは日本だけでなく、1970年代以降、「先進国」のすべてがこういう状況に陥っていったのである。こうして、ほとんどすべての先進諸国で、財政赤字が拡大していくことになった。
 そういう中で出てきたのが、サッチャー、レーガンのいわゆる「新自由主義」政策である。それは、端的に言えば、「福祉国家」を放棄して18〜19世紀的な「自己責任」論に回帰するという政策である。イギリスは西欧的な「福祉国家」のモデルを作ってきた国であるが、そのイギリスが「福祉国家」を放棄する政策を採ることになったのである。財政赤字のもとでは福祉のバラマキはできないどころか、福祉を最小限に切り詰めなければならず、福祉に対する財政支出を極限まで抑えることによって財政赤字を減らしていくことにしたのである。
 こうした「福祉国家の衰退」は、経済成長を当然の前提とした社会保障政策の行き詰まりを示すものであるが、それへの対策が18〜19世紀への「先祖返り」というのでは、あまりにも能がないと言わざるを得ないだろう。すべての人に人間らしい生活を保障するという「福祉国家」の思想や、それが国家の義務であるという「福祉国家」の国家観それ自体が、間違っていたわけではないのである。これらの考え方を堅持したうえで、低成長下の社会保障はいかにあるべきかを考えるとことこそ、能のある人間のなすべきことではないのかと思う。
 いわゆる「新自由主義」政策においては、所得再分配という考え方は放棄される。そこでは、お金を稼ぐ能力のある人はどんどん稼げばいい、お金を稼いだ人がお金をどんどん使えば経済は回っていって、いずれは貧しい人たちにもお金が回る、したがって稼げない人間は放っておけばいい、とされる。要するに、市場原理主義あるいは市場万能主義の考え方である。逆に、所得再分配などは「モラル・ハザード」を生み国の活力を失わせる、というのが「新自由主義」の考え方なのである。こういう考え方をもとにした「改革」というのは、社会保障の放棄にほかならない。いま、政治の世界でさかんに叫ばれている「改革」とは、そういうものなのである。
 1970年代までの高度成長を支えたのは何だったのか。もちろん、そこには経済そのものの構造的な要素などいろいろな要因があるわけだが、社会保障を通じた所得の再分配による国内需要の拡大、それによる更なる経済成長、という好循環も、あの高度成長をもたらした一つの要因なのである。社会保障の衰退は、いわば負のスパイラルを招く。成長が成長を促すという正のスパイラルは、社会保障を切り捨てたら成り立たない。所得の再分配を否定したら経済成長はありえないのである。社会保障が衰退した国は、貧しい人が生活できないということにとどまらず、その国の経済や、国そのものが衰退するのである。だから、たくさんお金を稼いでいて自分は社会保障など関係ないと言っている人の生活も、社会保障が衰退すれば実は崩壊していくことになるのである。
 低成長下での社会保障をどう構築していくかというのは、たしかに難しい問題であり、簡単に結論の出せる問題ではない。そのことを前提にして、さしあたりここで言えることは、まず第一に、社会保障の需要拡大を最小化するということである。もちろんこれは、社会保障の必要な人に対して、保障の水準を切り下げたり保障を打ち切る、ということを意味するのではない。人々が社会保障を受けなくても十分生活していけるような体制を作っていくということである。たしかに、今の日本では高齢化に伴う社会保障需要の拡大はどうしても避けられない。年を取れば働けなくなるし、病気にもかかりやすくなる。けれども、働ける世代の社会保障に対する需要を最小化することはできるはずである。これは、端的に雇用と賃金の保障である。若い世代が安心して生活できる社会、安心して結婚し子どもを持てるような社会にしていくことが、なによりも必要とされるのである。
 雇用と賃金の保障ということに対しては、それでは企業が国際競争に勝てない、企業はどんどん海外に逃げていってしまって空洞化する、というようなことが言われる。しかし、本当にそうなのであろうか。たとえば、アメリカも賃金の水準は高いけれど、だからといって、アメリカの企業が全部海外に逃げているわけではない。日本の企業も、工場の現業部門は海外に出しても本社は日本に置いているわけで、それにはそれなりの理由があるからであろう。国際競争力なるものは、人件費の多寡だけで決まるものではあるまい。
 もう一つ留意しなければならないことは、企業が従業員の雇用と賃金の保障をしないで人件費をどんどん削ったらどうなるか、ということである。たしかに個別の企業の人件費負担は減る。けれども、その分、国の財政負担は増える。いかに社会保障の放棄といっても、国は、失業者や生活困窮者に対してまったく何もしないというわけにはいかないから、失業者や生活困窮者が増えれば国の財政負担は増え、増税かあるいは国が破産するかのどちらかである。そうなれば、どちらに転んでも、個別企業の経済活動は阻害されることになる。個別企業も人件費負担が減ったから万歳とは言っていられないのである。そういう意味で、雇用と賃金をきちんと保障するということは、個別企業にとっても中長期的には利益になるはずなのである。
 低成長下での社会保障のあり方についての第二は、税制と社会保障を通じた所得再分配の仕組みの強化である。低成長下においても、だれもが「健康で文化的な最低限度の生活」が保障されるようにしていくためには、所得の再分配の仕組みをそれに見合う形でキッチリと行っていくことが必要である。「税と社会保障の一体改革」というのは、所得の再分配という観点から切り込んで再構築する、というのが本来のあるべき形なのである。
 低成長下での社会保障をきちんと確立していくためには、まず、貧困等の生活困窮は「個人の責任」ではなく「社会の責任」であるという意識を人々が共有していくことが、大前提として必要となる。そのうえで、社会保障の切り捨てが、短絡的には経済や財政の立て直しに役立つようにみえるとしても、実際には負のスパイラルを招くだけで経済は衰退し、したがってまた国の衰退をもたらすだけだということを、きちんと認識しなければならない。社会保障を切り捨てた国は衰退に向かうしかないのである。いま、そのことを真剣に、深刻に、考えてみる必要があると思う。

 

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