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浦部法穂の「大人のための憲法理論入門」

 

第18回 国家と社会の関係をどのようにとらえるか?(2)


浦部法穂・法学館憲法研究所顧問
2016年3月3日

 前回述べたように、近代憲法は、もともと、政治権力の社会への介入を否定し社会の自律性を確保することを目的としたものであった。そのため、国家の役割は、自律的な市民社会の秩序を乱す行為を規制し除去するという消極的なものにとどまるべきものとされたのであった。

 しかし、やがて、歴史の流れのなかで、いわば「社会的権力」というべきものが出現してくることとなる。政治権力ではないが人々が事実上それに服従せざるを得えないという、そういう存在が市民社会の内部であらわれてきたのである。つまり、市民社会のなかで相対的に一般の人たちよりも強い力を持つ存在があらわれ、一般の人たちがそれに服従せざるを得ないという状況が出てきたのである。典型的なものが大企業である。自律的な市民社会は、市民社会内部での自由な競争を最も重要な価値としたが、その競争の結果として生まれてきたのが大企業であり、それら大企業による市場の寡占化であった。こうして、大企業は市民社会の中で大きな力を持ってくることとなったのである。たとえば、ものを作ったり売ったりするとき、何を作るかも、それをいくらで売るかも、すべて企業の側が決める。労働者の賃金など労働条件も全部企業のほうが決める。そういう現象が資本主義の発達のなかで生まれてきたのである。大企業の側は、ものの値段も賃金も全部自由勝手に決めることができる。一方人々は、大企業が決めた値段や賃金を受け入れるしかない。こうして、市民社会内部で"支配する者とされる者"という権力的な関係が生まれ、その「社会的権力」が人々の自由や生存を抑圧するという状況が出てきたのである。19世紀の終わりから20世紀の初めにかけての頃である。このような「社会的権力」による個々人への抑圧を規制できるのは政治権力しかない。そこで、「社会的権力」を規制するために、国家による社会への介入が求められることとなったのである。

 19世紀の終わりから20世紀の初めにかけて、各国で大企業の横暴に反発しその規制を求める「反独占運動」が展開され、また労働条件の改善を求める労働運動も起きた。独占大企業などの「社会的権力」による抑圧は、人々の生存じたいを脅かし、市民社会内部に大きな不満をため込むこととなった。その不満を解消するためには、政治権力が市民社会のなかに介入して、社会的権力・大企業の横暴を規制することが必要になってきたのである。この時期に、たとえば米国では独占禁止法の原型ともいえる「反トラスト法」が制定され、また各国で、いわゆる労働関係法が作られ、労働者を保護するための立法がなされることとなった。労働者などの弱者保護や貧困対策が、国家の義務として求められることになったのである。つまり、国家が社会に介入せざるをえなくなったのである。

 さらに、1929年から30年代にかけての世界的大恐慌は、市民社会の自律性に委ねておくだけではもはや経済そのものを維持していくことができない、というところまで資本主義経済体制を追い込んだ。この大恐慌から脱し資本主義経済体制を維持していくためには、国家がさまざまな経済・金融政策を展開して広範に経済の領域に介入するしかない、という状況に立ち至ったのである。

 こうして、国家と社会の境界がだんだんとはっきりしなくなってくる。社会の領域では、人々は国家と関係なくいろいろな活動をするというのが本来の姿だったのであるが、国家が社会のさまざまな枠組みのなかに入りこんでくることによって、どこまでが国家の領域でどこまでが国家から離れた社会の領域なのか、だんだんわからなくなってきたのである。むしろ、社会生活は政治権力の規制や庇護のもとで営まれるものになった、とさえいえるような状況になったのである。そういう状況のなかで、人々の意識にも変化が出てきて、権力からの自由を求めるよりも権力による保護を求める傾向が、だんだんと強まってくることになる。

 国家が、社会的権力を規制したり、労働者保護のために労使関係に介入したり、あるいは貧困に陥った人を助けもしくは貧困に陥らないように予防措置を講ずる等々のかたちで個人の生活に配慮したり、さらには経済を誘導したり、ということが進むことによって、国家による社会への介入が強まってくると、政治権力が個人の私生活に介入し干渉するケースも、必然的に多くなってくる。たとえば、生活保護。生活保護を受けようと思ったら、国による徹底的な資産調査を免れない。不正受給を防ぐためであるが、ここでは個人の私生活はほとんど全面的に国の前にさらけだされることとなる。あるいは、監視カメラ。犯罪防止のためということで、あちこちに監視カメラが設置され、人々もむしろそれを積極的に要求しているようにみえる。しかし他方そのことによって、個人の私生活が権力の前に丸裸にされる、という危険を抱え込むことにもなる。このように、国がいろいろな形で社会生活の中に入り込んでくることによって、あるいは社会生活への権力的な規制がおこなわれることによって、社会生活の秩序や安全や利便性が守られ、あるいは弱者の生存が守られるということになるわけだが、他方で、それは、個人の私生活や自由への過度の制約をもたらすことにもつながるのである。

 国家の社会への介入がすべて悪ということではない。社会的権力を規制したり弱者を保護したりすることの必要性は否定できないから、国家による規制をすべてなくすべきだということにはならない。最近、なんでも規制緩和で、規制をなくして自由競争に委ねればすべてうまくいく、という議論が勢いを得ているようにみえる。しかし、その実態は18〜19世紀に唱えられた「自由放任」の主張への先祖返りでしかない。そういう意味で、国家による規制をすべて悪とする考え方は妥当ではない。一方で、しかし、権力による庇護ばかりを求めることになると、それは、個人の自由と人格を最大限に尊重するために社会の自律性を確保するという憲法の「原点」の否定につながりかねないのである。国家がどこまで社会に入り込んでいくかということで、しばしば、"大きな政府か小さな政府か"というような議論がなされるが、「大きな政府」か「小さな政府」かの二者択一ではなく、個人の私生活と自由にとって、権力的規制と社会の自律性という2つの要素の最も適切な調和点はどこか、という問題として議論されなければならないのである。「大きな政府」にして、すべて国が面倒をみればいいという話でもないし、なにもかもなくして「小さな政府」にして、すべて社会の自律性にまかせればいいという話でもない。その適切な調和点をみつけていくということが、いま最も必要とされることなのである。そのためには、私たち自身が、国や権力に対してなにをどこまで求めるのか、権力の介入を許すことによるそのデメリットを十分踏まえたうえで、自覚的に判断していく必要があると思うのである。「監視カメラで安心・安全」という発想だけでいてはダメだ、ということである。



 

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