第28回<犯罪の相談だけで処罰される!?>
今回は国会で議論がなされた共謀罪を憲法の観点から考えてみることにしましょう。
共謀罪とは、実際の犯罪行為を行っていない場合でも、一定の犯罪について相談したり、議論したりするだけで、処罰されるというものです。もともとはテロなどの国際的な組織犯罪を防止するために導入が検討されました。しかし、政府が出してきた法案では、国際テロと関係ない犯罪も含めてなんと619種類もの共謀罪が新たに作られることになってしまうということで批判されました。
そもそも日本の刑法は、実際に犯罪行為に出て、被害が発生したときに初めて処罰することを原則としています。そして、それよりも前の段階で処罰するのは、いくつかの限られた重大犯罪だけに限っています。それに対して、犯罪を相談しただけで処罰しようというのですから、これは従来の刑法の考え方を根本から逆転させてしまうものといえます。
さて、憲法上はどのような問題が生じるのでしょうか。ここでは三つほど問題点を指摘しておきます。
一つは、思想良心の自由の侵害になる危険性が高いということです。憲法は19条で、思想良心の自由を保障しています。私たちは心の中で何を考えても許されますから、たとえ犯罪であっても心の中で考えている限りは処罰されないのです。一定の思想を持つことを犯罪として処罰してきた、日本の苦い歴史への反省から生まれた規定です。ですが、内心にとどまらず行為を伴うようになると、それは人に迷惑をかけることもありますから、許されないこともあります。
さて、相談しただけではどうでしょうか。目くばせしたり口でぶつぶつ言っただけで犯罪行為をしたわけではないのに、これを幅広く処罰することは、実質的には私たちの内心や思想を処罰することに等しいといえます。ですから、共謀しただけで処罰することは、思想良心の自由の侵害につながるのです。
二つめは、処罰する要件が不明確なため、言論活動が萎縮してしまうという問題があります。共謀罪が適用される団体は、組織的な犯罪集団に限定されるというのですが、どのような集団がこれにあたるのかがはっきりしません。たとえば環境保護団体が環境破壊をするような企業に対してクレームのファックスを頻繁に送りつけるというようなこと(これは場合によっては業務妨害罪にあたる可能性があります)を日常的に行っていた場合に、この団体は組織的な犯罪集団とみなされる危険性があります。犯罪集団とされる危険があるから、こうした相談や議論じたいを差し控えておこうと萎縮してしまうとしたら、それは表現の自由(憲法21条)を間接的に侵害していることになります。
三つめは、国民が監視される社会になってしまうということです。この共謀罪では、自首した者は刑を減軽されたり免除されたりします。すると、誰かを陥れるために、共謀罪となるような発言をそそのかして、その場の様子をテープに録音し、自分は自首してその人をはめることができるようになります。また、あらゆる行為が捜査の対象となりますから、国民は盗聴や密告により国家から監視されていないか、びくびくして生活しなければならなくなります。つまり国民が国家から監視される対象となってしまうのです。
もちろん、一般市民の普通の生活が共謀罪で処罰されることはあまりないと思われます。ですが、政府の側が気に入らない行動をする市民グループにねらいをつけて、共謀罪で逮捕して懲らしめるということがありうるかもしれません。こうしたことが可能になってしまうと、政府を批判するような言論を抑制してしまいます。
政府の間違いを批判し正していこうとすることは、まっとうな民主主義社会においてはきわめて重要なことのはずです。それを萎縮させてしまうのでは、日本の民主主義が正しく機能しなくなってしまいます。政府が国民を監視し支配するのではなくて、私たち市民が主体として政府を監視し支配することが民主主義であり、そのために憲法が存在するのです。
いくら今の政府が「共謀罪は普通の市民団体や労働組合に適用されることはない」と言っていても、それはあてになりません。そうした口約束を信頼するのではなくて、ときの政府によって濫用される危険のないものにしておかなければなりません。
アメリカ独立宣言を起草したジェファーソンの有名な言葉があります。「信頼はどこまでも専制の親である。自由な政府は信頼ではなく猜疑に基づいて建設される」
つまり、政府は信頼の対象ではなくて、疑って監視する対象なのだということです。だからこそ、憲法でときの権力に歯止めをかける必要があるのです。こうした立憲主義の本質から共諜罪をみた場合、政府はテロから国民を守ってくれる存在であり、政府を信頼しておけば安心だ、という考え方は正しくないことがわかります。
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