2024.09.02 オピニオン

「表現の自由をめぐる現代的課題」

市川正人さん(立命館大学法科大学院・特任教授)



 表現の自由が私たちの民主的な社会を成り立たせる重要な人権であることは、広く認められている。そして、スウェーデンのV-Dem InstituteのDemocracy Report 2024では、日本は、表現の自由をはじめとする市民的自由が保障された真の民主主義国家として位置づけられている。実際、政府を批判する表現活動がそのことのゆえに弾圧され、処罰されるようなことはない。むしろ、インターネット上ではヘイトスピーチや虚偽情報、誹謗中傷が飛び交っており、また、昨今の選挙では選挙運動の名目での表現行為がひんしゅくを買っていて、行き過ぎた「表現の自由の濫用」の規制が課題となっているように見える。

 しかし、本当に日本で表現の自由が手厚く保障されていると言えるのか、疑問がある。たとえば、しばしば地方公共団体が政治的中立性を維持する必要があるなどとして、「政治的な」表現に対して「便宜」を図ることを拒否しているが、こうしたことは表現の自由の侵害にあたらないのであろうか。

 

「政治的中立性」を名目とした表現活動への「便宜」供与拒否

 例をいくつか挙げよう。さいたま市のある公民館は、俳句会からの推薦を受けて秀句を公民館だよりに掲載していたのに、「憲法9条を守れ」というデモを詠んだ俳句の公民館だよりへの掲載を拒否した(2014年)。その理由は、公民館の公正中立性に反するということであった。高崎市には県立公園「群馬の森」があり、そこでは、朝鮮人労働者の追悼碑の設置が認められていたが、県は、追悼碑の下での慰霊祭において「強制連行」という発言がなされていたことを理由に、「政治的行事及び管理を行わないものとする」という許可条件に違反した運用がなされていたとして、設置許可の更新を拒否した(2014年)。

 さらに、金沢市市庁舎の前には南北約60メートル、東西約50メートル程度の大きさの広場があり、集会にもしばしば利用されているが、市は、憲法施行70周年集会のための使用を、「特定の政策、主義又は意見に賛成し、又は反対する目的」でなされる示威行為にあたるとして不許可とした(2017年)。市によれば、市は政治的中立性を保たなければならないので、市庁舎前広場を「特定の政策、主義又は意見に賛成し、又は反対する目的」でなされる示威行為のために使用させることができない、というのであった。

 

表現活動への「援助」の拒否の問題性

 こうした地方公共団体による表現活動への「便宜」供与拒否によって住民や住民団体の表現活動が損なわれている。しかし、表現の自由は、国家(地方公共団体を含む)によって表現活動を妨害されない自由である、という伝統的な表現の自由理解からすれば、そうした事態は表現の自由を侵害するものではないことになりそうである。

  しかし、今日、国による市民・団体の表現活動への「援助」が広く行われている。たとえば、国は、芸術祭典等への参加を認めたり、芸術作品、文化活動への補助金を支出するという形で、表現活動を支援している。さらに、公立の図書館や美術館に図書、作品を収蔵することも、それらの執筆者、作者からすれば、図書、作品に市民がアクセスしやすくしてもらっているという点で、表現活動の「援助」とみることができる。

 こうして、市民の表現活動は、大きく国による「援助」に依存するに至っている。にもかかわらず、国が恣意的に表現活動に対して「援助」をするかどうかを決定できるとするならば、国の権力者、担当者のめがねにかなう内容の表現だけが国による優遇-財政的な優遇と国による権威付けという優遇-を受け、いわゆる「思想の自由市場」において優位な地位を占めるということになりかねない。また、市民の表現活動が国による「援助」に大きく依存している現在、市民の側でそのことを危惧して萎縮し、国の不興を買うような表現活動を行わないよう忖度するおそれがある。

 

表現活動への「援助」の拒否と表現の自由

 私は、<国家からの自由>という表現の自由の性格を維持しつつこの問題に対応していくことができる、と考えている。つまり、国家が表現活動の場を設定したり、表現活動への援助の仕組みを設定すれば、国家が恣意的な形でその表現活動の場での表現活動を認めなかったり、表現活動への援助を拒否したりすることが、国家からの自由としての表現の自由の侵害となることがある。そして、表現活動への「援助」がどの程度、表現の自由の保障によって拘束されるかは、設定された表現活動の場所、表現活動への援助の仕組みの種類、性質に応じて異なってくるであろう※1。

 たとえば、表現活動・集会のために用いられる市民会館などの施設を設置することは、市民の表現活動・集会の場を設定するという意味で、表現活動・集会への「援助」と言えるが、地方公共団体がそうした表現活動の場、つまりパブリック・フォーラムを作った場合には、住民はそこで表現活動を行う自由を有するのであって、そうしたパブリック・フォーラムからの恣意的な排除は表現の自由の侵害となる。また、金沢市庁舎前広場のように、公式に「公の施設」(地方自治法244条1項)としての管理条例が制定されていない施設であっても、名称・外観・構造、当該施設についての定め、利用状況などからして表現活動の場として設置され管理運営されていると理解すべき場合には、パブリック・フォーラムと捉えるべきである。

 また、公園への記念碑設置の許可のように、特定の人や団体にその場所に表現物を独占的に長期間設置させるような場合、表現物の独占的な設置という形で表現行為を認めるという仕組みの目的に照らして合理的な許否の判断がなされなければ、表現の自由の侵害の問題が生ずるであろう。また、一旦設置許可が認められた場合、その許可を更新しないということは、表現活動をやめさせるということを意味するのであるから、表現の自由の制限にあたることになる。

 先に挙げた諸事例では、住民の側が訴訟を提起しており、中には「9条俳句」訴訟のように勝訴した事例もある。そうした事例では、裁判所は、表現の自由の侵害だとはしなかったものの、憲法における表現の自由や思想・良心の自由の保障に配慮する形で当事者の人格的利益を認めている※2。こうした方向性をさらに進めていくべきである。

 

「政治的中立性」概念の問題性

  「政治的」も「政治的中立」もきわめて多義的な概念である。金沢市庁舎の事例では、「特定の政策、主義又は意見に賛成し、又は反対する」ことが政治的であると捉えられている。しかし、特定の「主義又は意見に賛成し、又は反対する」というのは、国や地方公共団体の決定や政策に賛成したり反対したりすることや、日本の国家体制のありようについて主張をすることにとどまらないのであって、社会的な事柄についての意見に賛成したり反対したりすることも含まれてしまう可能性がある。群馬の森の事例では、裁判所は、「政治的行事及び行事及び管理」には、少なくとも、政府の見解に反して「強制連行」という用語を使用し、歴史認識に関する主義主張を訴えることを目的とする行事を含む、とした。ここでは、政府見解に従った歴史認識の主張は政治的でないが、政府見解に反する歴史認識の主張は政治的だとされているのである。

 「政治的」も「政治的中立」もこのように多義的な概念であるので、地方公共団体の側がトラブルを避けたいという思いから、あるいは権力者に対する忖度から、「政治的中立性」を侵すおそれがあるとして表現活動を認めないといったことがある。「政治的中立性」維持を理由とした表現の自由の制限は、「政治の忌避」、「政治からの逃走」という日本社会の最近の傾向を助長するものであり、日本の民主主義の健全な発展を阻害するものである。そうした動きへの対抗は、日本の民主主義をめぐる重要な課題の一つである。

 

 

*1 詳しくは、拙稿「表現活動への国家の『援助』と表現の自由」判例時報2528号(2022年)130頁参照。

*2 拙著『表現の自由 「政治的中立性」を問う』(岩波書店、2004年)「第三章 表現活動への『援助』」参照。


◆市川正人(いちかわ まさと)さんのプロフィール

立命館大学法科大学院特任教授。博士(法学。京都大学)。

著書に『表現の自由 「政治的中立性」を問う』(岩波書店、2024年)のほか、『基本講義憲法 第2版』(新世社、2022年)、『表現の自由の法理』(日本評論社、2003年)、『司法審査の理論と現実』(日本評論社、2020年)など。