連載 デジタル社会と憲法 第9回「『デジタル化』は宗教集会の代替となるか?―感染症対策における信教の自由」

山本和弘さん(早稲田大学大学院法学研究科 博士後期課程)



キーワード:憲法20条、信教の自由、礼拝の自由、宗教とデジタル化、パンデミック

 

はじめに

 人が「自立して自律する人格を備えた個人」であるとすれば、時間的にも物質的にも有限な自らの生を、ただ衝動として生きるだけでは満足せず、何らかの意味充足を求めることは必然である。日本国憲法も、生に対する意味充足の多様な選択肢について、個人の選択を尊重することにしている。その選択肢として古今有力な存在の一つとして宗教を挙げることができるだろう。しかし、特に2020年以降、コロナウイルス感染症の蔓延によって宗教実践もまた、例外なく打撃を被った。多くの宗教団体がその宗教実践を継続するために、デジタル技術の活用へ乗り出した。宗教団体が広報等にデジタル技術を使うことは以前よりあったが、礼拝等の宗教集会それ自体の「デジタル化」は、コロナ禍が決定的な契機となっている。

 本稿は、コロナ禍における信教の自由、とりわけ集うことが当然のこととされてきた礼拝等の宗教集会の制約およびその代替措置としての「宗教のデジタル化」を素材として今後憲法学が向き合うべき課題を検討する。

 

パンデミックにおける宗教実践の規制

 コロナウイルス感染症に対する法規制が、宗教活動にいかなる制約をもたらしたのか。そして、ほとんど手探りで着手された法規制がいかに総括されているのか、いかなる課題を見出すべきか。この問題を考えるため、以下では、宗教集会そのものを禁止したドイツと、「要請」ベースに留めた日本の感染症対策を概観する。

 ドイツでは、当初、感染症法32条に基づき、大幅な権利制限を伴う法規命令の発令をラント(州)政府に授権していた。その一例として、2020年3月17日のヘッセン第四次コロナ対策命令1条5項は、教会、モスク、シナゴーグ、およびその他の信仰共同体における集会を禁じていた。

 ローマ・カトリック教会に属する申立人は、同規定により定期的に参加していたミサへ参加出来なくなり、同規定の執行停止の仮処分を求めた。

 結果として、連邦憲法裁判所第一法廷第二部会決定(2020年4月10日)※1 は、申立を棄却したが、理由づけにおいて、宗教集会の「デジタルによる代替可能性」について興味深い論証をしている。すなわち、共同で行う聖餐式がカトリックの確信するところによれば信仰の中核をなすものであり、インターネットによる礼拝中継や個人で行う祈りといった他の形態の信仰活動によって補えるものではない、という申立人の主張を、もっともなものであるとして受け容れたのである。それゆえ、これらの式典を禁止することは、基本法4条1項・2項の信仰および告白の自由に対する「極めて深刻な制約」を意味するとしている。

 もっとも、第二部会は、同規定の効力を停止することによりミサに多くの参列者が参加することで、感染拡大、医療体制の逼迫、そして人の死の危険性が高まるというロベルト・コッホ研究所のリスク評価を根拠として挙げ、さらにミサ参列者のみならず多くの人にも感染の危険が及ぶことから、身体・生命に対する国家の保護義務の前に、共同で行う祝典へ参加する自由が、現在のところは後退すると判断した。また、同年4月19日に同規定が失効することも本件「極めて深刻な制約」の正当化根拠に挙げられた。更新に際しては、ウイルスの拡散方法等の新しい知見に鑑み、厳格な比例審査がなされ、ミサの禁止が、場合によっては厳格な条件の下で、あるいは地域を限定して緩和できないかが審査されなければならないとした。

 この部会決定は、同事件について判断したヘッセン上級行政裁判所決定(2020年4月7日)※2 とは対照的である。すなわちヘッセン上級裁判所決定は、集会を伴うことなく行いうる宗教的行為のすべての可能性が残されており、大司教と司祭が礼拝をインターネットやテレビで中継し、電話による司牧活動の継続などに努めていることから、申立人の信教の自由が生命の保護等の公益(基本法2条2項1文)の後景に退く根拠に挙げていた。

 決定当時の状況下では、宗教の自由が公衆衛生に道を譲らざるをえなかったが、デジタルツール等の代替措置を採りうることを理由に、信仰者が確信する共同で行う礼拝の宗教的意義を一掃しなかった点は、評価に値する。代替措置として「デジタル化」を引き合いに出すことは、デジタル環境を備えない者を排除するのみならず、デジタル環境を備えた者にとっても、宗教実践そのものの意義を損なわせることになりかねない。

 翻って日本では、宗教実践を直接禁止する措置は採られていない。また、その他の措置に関しても、原則として法的強制力を伴わない「要請」ベースであった。むしろ、そもそも宗教団体に対しては「要請」すらされていないと見ることもできる。しかし、実際には多くの宗教団体が、対面での礼拝をはじめとした多くの行事の「自粛」を選び取ることとなった。

 新型インフルエンザ等対策特別措置法(以下、特措法)45条によれば、特定都道府県知事は、緊急事態宣言下において「生活の維持に必要な場合」を除き外出しないことを「要請」し(1項)、「多数の者が利用する施設を管理する者又は当該施設を使用して催物を開催する者」に対し、施設使用・催事の制限もしくは停止等を「要請」することができる(2項)。もっとも、特措法施行令11条に列挙された使用制限の対象施設に宗教施設は明記されていないが、同条5号の「集会場又は公会堂」が宗教的施設に該当するかが問題となる。礼拝等に伴う外出が1項の「生活の維持に必要な場合」に当たるかについては、礼拝が信仰の核心を形成するとすれば、苦難において礼拝に救いを求める者にとってはこれを「生活の維持に必要な場合」と見ることもできる。また、礼拝等に供される宗教施設は特措法施行令11条5号の「集会場」には該当しないとみなされている。ゆえに、礼拝等に供される宗教施設は特措法45条2項の対象施設には当たらない※3。現在の法令を分析したところ、宗教活動のための集会については、制限の対象となっていないように思われる。

 

宗教の側の対応

 宗教団体は集うことの代替措置としての「デジタル化」を、その信仰の中にいかに位置付けているのか。とにもかくにも宗教団体は、配信ミサ等のデジタル技術を積極的に活用しているが、それによって集うことの持つ意味が十分に補完できているのかといえば、必ずしもそうではないように思われる※4。

 ドイツにおける一例を挙げると、カトリック教会、福音教会、正教会の共同声明では、「困難な時代だからこそ我々が一緒に祈りと礼拝に集うことで、神の近くにあろうとすることが、キリスト教徒にとっては、実は不可欠である」と、礼拝における集うことの意義が強調されている※5。

 日本基督教団は、その声明のなかで、プロテスタント教会の「信仰の命」が礼拝にあることを確認しつつ、感染症のリスクを避けるために集って祈ることが相応しいのかが問われているとする。カトリック中央協議会は、極めて詳細な感染対策ガイドラインを制定し、各教会の所在地域の状況に鑑み、これに依拠させるよう要請している。また、今後「未知の新興感染症」が発生した場合には、必要に応じて同ガイドラインを改定して運用するとの姿勢を示している。止むを得ず公開の礼拝を中止する場合には、インターネット等を通じた配信が推奨されている。いずれの教派も、未知の感染症のただ中にあって、「集う」という礼拝の方法をオンラインに置き換えることで、礼拝そのものを維持する取り組みを続けてきた。しかし、デジタル技術を駆使した仮想的な「集う」という方法が、「祈る」という精神活動において占める重要性を巡っては、なお結論づけられていないようである。例えば日本基督教団が公開した神学者らの声には、オンラインによる配信ミサを「単なる緊急避難時の『代替措置』」として片付けるのはもったいないとし、今後もその積極的な意義付けに意欲を示すものがある一方で、教会は「神の招きと導きによって、共に礼拝しようと自発的に集まる者の群れ」であるところ、「群れとして、礼拝を守るための出来る限りの検討」と「判断」の必要性を説くものもある。本稿でこの問題に踏み込むことはできないが、キリスト教のみならず、コロナ禍で活動を自粛した全ての宗教団体にとって、「集うこと」の意味と意義が問い直されていることは確かである※6。当然その問いの答えは各宗教団体の自己理解に任されるべきである。そして政府は、今後も起こりうるパンデミックへの対応に乗り出す際には、感染症に関するその時々の最適なデータに基づき、宗教にとっての「集うこと」の意味を十分に尊重する必要があるだろう。

 

終わりに:憲法学の課題

 以上で概観したように、日本における感染症対策の特徴は、あくまで「要請」である点にある。要請に従うか否かの判断は、最終的には宗教団体の自律性に委ねられているのだから、公権力による自由の制約の問題は生じなかったかといえば、必ずしもそうではない。

 確かに、日本の感染症対策において、政府が宗教活動の規制に乗り出す場面はあまり見られなかったかもしれない。しかし、そのような状況下で、「自粛警察」といった社会的・事実的な制約が生じる可能性がなかったかといえば、やはりそうではない。むしろ、日本の感染症対策の実効性は、同調圧力といった社会的・事実的な制約により担保されていたと言っても過言ではないように思われる。全国一斉休校などに見られるように、社会における「構造的忖度」が発生する余地があったと見ることは十分に可能である。自粛要請に応じない事業者に対し、SNSなどのデジタルツールを用いた誹謗中傷が、あるいは有形力を用いた抗議活動が相次いだように、コロナ禍という苦境への救済を求める真摯な信仰に対する同様の「世間の目」や「空気」が、事実上、信教の自由の制約へと乗り出す可能性が今後もないと言えるだろうか。誰もその可能性を否定できないとすれば、結果的にこのような状態を生起させうる公権力の措置、あるいはそれを当てにしているとすら言える措置を憲法学は静観して良いのだろうか※7。

 この問題は、さらに権力の統制、事後的評価という点にも影を落としている。「要請」ベースの感染症対策は、感染症対策における政府の役割と責任を減少させ、一般人の役割と責任を大きくするという「放置国家」現象をもたらす。その結果、政策実施の責任の所在が不明確にされるだけである。生命・健康の保護と自由な宗教実践とをトレード・オフの図式で把握するしかない事態において、当該措置が適切であったのか、適切でなかった場合、いかに修正すべきなのか等の事後的検証を可能とするためにも、「世間の目」や「空気」によらない明確な制度設計が必要になるはずである。宗教的な集会を明確に禁止したドイツでは、その後の感染状況の推移に伴い、ラントの規制権限に要件を課すといった修正を施している※8。

 確かに信仰共同体の外部から見れば、礼拝施設で共同で祈ることができなくても、家庭で祈ることは妨げられないし、オンラインによって公開ミサを仮想的に再現出来ると見ることも出来る。しかし、集会の自由の文脈で語られる「人々が現実に集うことにより生まれる場の磁力」の凄まじさは、宗教実践にもそのままあてはまるはずである※9。そうであるならば、宗教の側による「デジタル化」の自己理解を積極的に理解した上で、生命・健康を守るための措置を実現できる視座を提供することもまた、憲法学の課題ではないのだろうか。

 

 

※1 BVerfG, Beschluss der 2. Kammer des Ersten Senats v. 10. April 2020 - 1 BvQ 28/20 -. 感染症対策において信教の自由が争われた他の事件については、岡田俊幸「<研究ノート> コロナ危機下の信教の自由:ドイツの判例の展開」日本法学86巻4号(2021年)1-50頁。

 

※2 Hessischer Verwaltungsgerichtshof, Beschluss v. 07. April 2020 - 8 B 892/20.N -.

 

※3 柴田正義「<研究ノート>コロナウイルス禍と礼拝の自由」金城学院大学論集17号1巻(2020年)34頁。

 

※4 本稿で紹介するのはごく一部の教団のごく一部の意見表明にすぎない。ドイツにおけるカトリックとプロテスタント両教会の対応については、木村クリストフ護郎「コロナ危機における宗教の役割:ドイツのキリスト教の場合」上智ヨーロッパ研究13号(2020年)73-92頁。キリスト教のみならず、日本の「既成・新宗教」も含めた対応については、堀江宗正「宗教と感染爆発」宗教研究95巻2号(2021年)75-98頁。

 

※5 Ein Wort der katholischen, evangelischen und orthodoxen Kirche in Deutschland: „Beistand, Trost und Hoffnung“ (https://www.ekd.de/gemeinsames-wort-der-kirchen-zur-corona-krise-54220.htm).

 

※6 本稿で紹介した宗教団体の対応については、下記を参照。「新型コロナウイルス感染症に伴う注意喚起について」(第三信)(https://uccj.org/news/36449.html)。日本のカトリック教会における感染症対応ガイドライン(https://www.cbcj.catholic.jp/2020/11/09/21446/)。「神学者たちの声に聞く」教団新報4928・29号(2020年)(https://uccj.org/newaccount/36963.html)。

 

※7 諸外国のコロナ禍における宗教のスティグマ化については、堀江・前掲※4。

 

※8 ドイツの法規制の推移について、横田明美・阿部和文「ドイツ感染症予防法の2020年11月改正:コロナ規制の『カタログ化』」JILISレポート3巻14号(2021年)1-13頁。

 

※9 江藤祥平「匿名の権力:感染症と憲法」笠木映里ほか編『新型コロナウイルスと法学』(日本評論社、2022年)20頁。

 

 


◆山本和弘(やまもと かずひろ)さんのプロフィール

早稲田大学大学院法学研究科博士後期課程。

主な研究業績として、「ドイツにおける公法社団たる宗教団体と『国家への忠誠』」憲法理論研究会編『次世代の課題と憲法学』(敬文堂、2022年)所収、「教会の自律的決定権と国家の権利保護」宗教法40号(2021年)、「ドイツにおける国家の宗教的中立性の構造」早稲田法学会誌68巻2号(2018年)などがある。