性に目ざめたというより、「性」をはじめて感じた男の子。出産を控えた妊婦。そして家族、親族の集まった結婚式。初夜。赤紙が来た若者は恋人に一緒に逃げようと誘う。
みんな生きることに一所懸命だった。生まれたばかりの赤ん坊を囲んで、喜びがあふれる。そうした、ごく、誰にでもある「生きていること」が、一瞬にして断ち切られる。「こんなことがあっていいのだろうか。」
その悲しみ、怒り。それをどこにもっていったら良いのか。井上光晴の原作はそれを訴えたかったのでしょうか。しかし、それは実際あったことです。これからも十分に起こり得ることなのです。
【映画のあらすじ】
1945年8月8日の長崎で、一組の結婚式が行われようとしていた。
花嫁は看護婦のヤエ、花婿は工員の中川庄治だった。戦時下ゆえいつ空襲になるかわからないこともあり、つつましやかに取り行われた。写真を撮り終えたところで姉のツル子が陣痛を訴えた。ヤエの同僚の亜矢は妊娠3ヵ月だったが、恋人の高谷藤雄は呉へ行ったきり、音沙汰がなかった。ツル子の家には産婆がやってきて、「産まれるのは夜になるだろう」と言った。母・ツイはツル子に取っておきの小豆をお手玉から取り出して煮て食べさせてやった。
ヤエの妹・昭子は恋人の長崎医大生・英雄と会っていた。英雄は赤紙が来たことを告げ、駆けおちをすすめたが、昭子は「それでも男ね」と突っ撥ねた。庄治とヤエは初夜を迎え、ツル子は男児を出産した。
誰もが明日に向かって精いっぱい生きていた。8月9日の朝、いつもと少しも変わりはなかった。(映画.COM『TOMORROW 明日』ストーリーより)
「人間は私の父や母のように霧のごとく消されてしまってよいのだろうか。」(「人間が霧になるとき」若松小夜子・長崎の証言・5)。映画の冒頭に、このような問いかけがあります。
映画は、戦争が日常であったある日を再現しています。おそらく誰にでもあったような一日が淡々と描かれていきます。原作者は、その日、爆心地に住んで、働き、生活していた人たちの姿を克明に調べ上げ一日のストーリーにしたといいます。
私たちは、映画の中の人たちの振る舞いに、次の日に起きたことを予感・想像して、緊張しながら映画を見ていくことになります。「今日の続きが明日である」と思い込んでいる彼らの日常を。その一人一人、私たちの身近にいる人のように親しみと愛しさを感じてしまいます。
しかしそれは突然断ち切られてしまうのです。なぜ? 私たちはその先の彼らの運命を、神のように知っているのです。もし映画の中の彼らに声が届くなら、「逃げろ、逃げろ、何でも良いから、とにかく逃げろ」という気持ちになるのです。まるで一生懸命働いている蟻の行列を上から見ているように。結末はわかっているからこそ、どうしてこんなことが許されるかという気持ちが強まっていきます。
しかし、考えてみれば、そうしたことはまた、いつ、今でも、私たちにも降りかかってくるかもしれないものなのです。何も知らないでいるまま。私達はそれをほんとうに知らないのでいるのしょうか。
私たちの時代、これからの戦争、核戦争、原発事故。それらは自分たちに関係するものだとあらためてとらえ直し、戦争や核に反対していかなければ、そうした気持ちをじわじわと呼び起こします。
映画は、日常の生活を淡々と描いていますが、そうした日常の言葉のやり取りの中にも、「そうだ、これは戦時中の話なのだ」と思い知らされる言葉があります。
「ご時世」という言葉がよく出てきます。「近所の目もあるし」という言葉も。75年以上前の戦時下と今と。隔たっているにもかかわらず、何だか今の私たちを覆っている空気の中に同じような空気感を感じるのです。戦争に向かう空気です。戦争が準備されている息苦しい空気。
「戦時下」は「非常時」で、「緊急事態」の中にあります。それでも人々の生活がそんなに変わっていなかったということはまた、いま「平和だ」と思っている世の中もまたいつ「非常時」や「緊急事態」、そして「戦時下だから」声をひそめるような社会になっていくかもしれないということです。
いや、もうすでに私たちの心の内は、すでにそうした自主規制の制限がかかっているようです。思うことがそのまま言えない、おかしいことをおかしいとも言えないような風潮になっているのではないか。そんなこともこの映画から感じました。
戦時中、人々の中に戦争がどのように感じられていたかもこの映画からいろいろ想像できます。「『戦争に行ってお国のために死んでこい』なんてほんとうは、みんなこころにもないことを、演技でもしているように言いあっていたなんて嘘だろ」そうずっと思ってきましたが、子どもたちは、あるいはそうした教育を受け続けてきた若者たちは、案外本気でそう思っていたのではないか。そんなことを感じました。教育の恐ろしさです。
そしてそれは今の子どもたち、未来の子どもたちだって、そうなっていくことはおおいにあり得るのではないか。その時、ではなく今、「それはおかしい、『大切なのは国じゃない、あなたたちと私たちの命だ』とどうして言わないのか」、おかしいと思ったことをおかしいと言わないことも戦争への道を許すこと同じことなのだ、とこの映画はまた問いかけているかのようです。
「人間は私の父や母のように霧のごとく消されてしまってよいのだろうか。」そんなことを絶対に許さないように、今、一所懸命考えて声にしていかなくてはならないと思いました。
【スタッフ】
原作:井上光晴『明日 一九四五年八月八日・長崎』
監督:黒木和雄
プロデューサー:鍋島壽夫
脚本:黒木和雄、井上正子、竹内銃一郎
撮影:鈴木達夫
美術:内藤昭
編集:飯塚勝
音楽:松村禎三
助監督:月野木隆
【出演者】
三浦ツル子(桃井かおり) 三姉妹の長女。妊娠中。妹の結婚式の最中に産気づく
三浦ヤエ(南果歩) 花嫁。三姉妹の次女。8月8日に中川庄治と結婚。
三浦昭子(仙道敦子) 三姉妹の三女。召集令状が来た恋人の英雄から駆け落ちを持ちかけられるが、断る。
石原継夫(黒田アーサー) 中川庄治の友人。軍属で捕虜収容所で働いている。
中川庄治(佐野史郎) 花婿。製鋼所の工員で三浦ヤエと結婚する。
三浦泰一郎(長門裕之) 三浦家の家長。
三浦ツイ(馬渕晴子) 三浦泰一郎の妻。出産を控えたツル子に付き添っている。
英雄(岡野進一郎) 三浦昭子の恋人。長崎医科大学に通っている。
銅打(田中邦衛) 中川庄治の継父。写真館を営む。結婚式の記念写真を撮影する。
ミネ(絵沢萌子) 銅打の妻。夫とともに結婚式に参列する。
山口(原田芳雄) 銅打が写真を届けに行った養鶏場の経営者。
亜矢(水島かおり) 三浦ヤエの同僚。妊娠3か月であり、相手の男は呉市に行ったきり音信不通。
春子(森永ひとみ) 三浦ヤエの同僚。
娼婦(伊佐山ひろ子) 客の石原を優しく包み込む。
水本(なべおさみ) 三浦ツル子の叔父。長崎電気軌道の運転手。結婚式に参列する。
満江(入江若葉) 水本の妻。夫とともに結婚式に参列。翌日は浦上周辺で乗務している夫のために弁当を持っていくと約束する。
産婆(賀原夏子) ツル子の出産に立ち会う。
藤雄の母(荒木道子) 藤雄の消息を聞きに来た亜矢を冷たくあしらう。
仲人(横山道代)
キヨ(二木てるみ)
商店主(殿山泰司)
薬売り(草野大悟)
三谷昇
(黒木和雄監督/1988年作品/日本映画)
【上映情報】
「憲法を考える映画の会」では、敗戦の日を前に、1988年制作のこの映画を上映し、今の情況の中での戦争を、そして核についていっしょに考えたいと思います。
第65回憲法を考える映画の会(第3回憲法を考える映画の会@国分寺)
「映画『TOMORROW 明日』上映会」(東京・国分寺)
●日時:2022年8月13日(土)13:30~16:30
●会場:国分寺市立いずみホール(東京・JR西国分寺南口1分・駅前広場 隣接)
●プログラム 映画「TOMORROW 明日」(106分)
●参加費 1000円 学生・若者:500円
●問合せ:国分寺憲法を考える映画の会 TEL:042-406-0502 mail:hanasaki33@me.com